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October 26, 2008


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「ずらす」という緊張。

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僕は「お笑い」が好きだ。

笑うことも純粋に好きだが
「お笑い」が、好きなのである、ずっと。


最近になって、やっと気付いたのだが

僕は、「ずらし」が好きなようだ。


もちろん、お笑いはいろいろ好きだが
特に「ずらし」が好きなようだ。最近になって、やっと気付いた。


ほんとうは、調理法とか料理の技術のように
それを指す、専門用語があるのかもしれないが
ここは、「ずらし」、という呼び名で、進めさせていただきたい。

僕は、ずっとそう呼んでおりまして。
ま、自分の頭の中だけで、ですが。


「ずらし」というのを、説明したい。
じゃないと、この文章が成り立たない。


「ずらし」は、「例え」というのと似ている。
似ているというか、含んでいる。


誰かが、「木村って、ほんとおっちょこちょいだよなあ」と言ったとする。

「そうそう、バカだよね」とか、「よくミスるよね」とか
そういう、応えかたがあるが、それは「そのまま」である。


それを「例え」にすると

「3歳児だよな」とか、「ニワトリだよね」となる。

例えているわけだ。


「例え」の時点で、本当のことではなくて、少し、「ずれて」いる。
現実から少し、「ずれて」いる。

少し面白いが、しかしまだ、「ずれ幅」が小さい。


もう少しだけ「ずらして」応えてみる。

「木村って、ほんとおっちょこちょいだよなあ」
「脳みそ、32グラムしかないんだって」

という感じになる。
でも、それはまだ「例え」の範囲だ。
「あり得ない」だけで、「例え」としては、正解といえる。


さらに、もうちょい「ずらして」みる。
このへんから「ずらし」、になってくる。


「木村って、ほんとおっちょこちょいだよなあ」
「ケータイ無くしてもいいように、いつも3つ持ってるからな」

「木村って、ほんとおっちょこちょいだよなあ」
「中華街で、いつもパスタばっかり食ってるもんな」


という感じになる。
しかし、まだずれ、が足りない。

中華街でパスタばかり食べているのは
ある意味、おっちょこちょい、でもあるからだ。


もう、さらに「ずらして」みる。


「木村って、ほんとおっちょこちょいだよなあ」
「親父、マイアミ生まれなんだろ?」

「木村って、ほんとおっちょこちょいだよなあ」
「持ってる金、常に4の倍数だからな」

「木村って、ほんとおっちょこちょいだよなあ」
「六本木に行くと、あいつ、身長、縮むからな」

「木村って、ほんとおっちょこちょいだよなあ」
「綿棒で言ったら、綿じゃなくて、棒のほうだろ?」


この「ずれ幅」が、大きいほど、僕は好きなのだ。

しかし、そこに関係がなくてはならない。それが大事だ。

「関係ねぇよ」というくらいの、「ずらし」かたが面白いんだけど
どこかで、理由はともかく「関係」を感じられないと、成立しなくなる。

実際に、関係性が存在する必要はなく
どこかしら、関係を、細い線でもいいから、感じられればよい。


だから……。

「木村って、ほんとおっちょこちょいだよなあ」
「宮崎駿でございます……」

「木村って、ほんとおっちょこちょいだよなあ」
「リンガーハットだぬーん!」


というのは、面白くない。ちょっと面白い気もするけど。
それは、ポーズとか、言い方次第だ。


しかし、人によって、その繋がるラインのギリギリ度合いが異なる。

だから、難しい。
だから、面白い。


笑いは「緊張と緩和」だというが、「緩和」にならないと笑えない。

「緩和」を、表情やポーズ、言い回しで生み出す笑いは、あまり好きではない。

「ずらした」応えで、脳に緊張を生み
「なんだそりゃ?」となったところで、ちょっと繋がる。

繋がることで、緩和する。


ていうか、なんでこんなこと、夜中に書いてんだろ。
コーヒー、買いに行こっと。


Posted by eno at October 26, 2008 01:32 AM


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