人と会話をしていて、「因果関係」の話になった。
人は、因果関係を求める。
脳は、因果関係を好む。
因果関係というのは、原因と結果、その繋がりのことである。
子どもの頃も、因果関係を考えたりはするが
大人になると、仕事をやっている上で、そういう習慣がつく。
例えば、飲料関係の仕事をやっている人がいて
例えば、今年の夏、アイスのブラックコーヒーの売上が、全体的に良かったとする。
で……「あー、そうなんだー、へぇ」では、仕事上、よくない。
「今年の夏は、例年に比べ、気温がどう」だの
「ダイエットを気にする若者がどう」だの、そういう原因を考える。
考えて、自分なりの結びつきを作る。結論付ける。
思うのだが、これって、意識してやっていることでもあるけど
脳が喜んでいることなのではないだろうか。
言い換えれば、脳が好きなことなのではないだろうか。
1つの情報が豊かになるというか
情報が、ほかの情報を結びつきをするというか
様々な情報との結線が太くなるというか。
とはいえ、あまりそんなことを考えない人もいるだろう。
とはいえ、極力、因果関係を考え求める人もいる。
僕は、ものすごく、こっちのタイプだ。
なにかしらの変化があったら、取りあえず、因果を考える。
最近、思うのは、いちど考えて終わり、にしないこと。
それを、すごく注意している。
また、原因が複数あることも多く、なにか1つに決定づけないこと。
こちらは、ものすごく注意している。
話が繋がるのだが、というのは
どうも、脳は、因果関係が好きなようで
なにか、1つ因果関係が自分の中で成立すると
まるで、「お腹いっぱい」と、満腹の信号が出たように
それでもう、納得してしまうのだ。
「え、デザート? いや、もういらない。お腹いっぱい」みたいに。
だから、かなり意識して、そうじゃないかもとか
もっともっと、原因が存在するに違いない、とか考えている。
ところで、脳が好き、といえば
因果関係の話と似ているが、脳は、「名前」がすごく好きだ。
「ラベリング」が好き、と言ってもよいのかな。
逆にいえば、そんなもので満足してしまう。
例えば、みんなで、どこかの公園に行ったとする。
すると、見慣れない鳥が、池にいるとする。
「あの鳥なんだろう?」と思う。
脳の優れているところだ。自然と興味を持つ。
そんなことまったく思わなくなることもあるので、注意だが。
で、実際に口で、「あの鳥なんだろう?」と言ったとする。
誰かが、「あれは、アカハジロだよ」と答える。
すると、「あぁ、あれはアカハジロかぁ」と思う。
それって、なんだよ、と思う。
名前がわかっただけだ。
名前がわかっただけで、なにもわかっていない。
生態も、特徴も、どんな餌が好みとか、なにもわかっていない。
なのに、かなり、わかった気になる。
わかったつもりになってしまう。
脳は、ラベル1コ貼って、大満足だ。
それじゃよくない、と、僕自身は思いたい。
脳も僕自身だけど、意識して脳に働きかける。
知った気になる、わかった気になる、というのは
この世の中を、自分のものに塗り替えていく作業として
誤解であろうが、なんだろうが、すごく大切なことではあるが
そこで、止まらないようにする、意識が必要だと、思っている。
ぜんぜん関係ないが、最近、タクシーに乗ると
「お客様の安全と法令を守るため、シートベルト着用にご協力ください」
という音声が流れることがある。
「安全と法令」って。
誰が、うまいこと言えと……と思っていたが
よく考えたら、ものすごくヘンテコだ。