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March 25, 2011


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これからの話をしよう。


『これからの「正義」の話をしよう』という
ハーバード大のマイケル・サンデルの授業が少し前に流行った。

「これからの正義の話をしよう」というのは
もちろん、孫正義の未来について考えようというわけではなく
そして、「正義とはこういうものだ」という授業でもない。

正解がないのだ。

だから意義がある。


世の中には、様々な意見があり、様々な価値観がある。

1つの道徳観だけ捉えてみても、多くの矛盾に満ちており
その根拠は......と掘っていくと、その支えになるような
確実なものは、どこにも見つからなかったりする。
もちろん、宗教の濃度によって、ずいぶん違ったりするんだけど。


長男がまだ、小学校の4年生の頃だと思うが
「人はなぜ、人を殺してはいけないのか?」というテーマを
突然ぶつけられたことがあって、かなり困惑した。

僕は、めずらしく、1分くらい時間をもらってから答えた。


まず、パパが言うことは、「パパの意見」である、ということ。
いまから言うのは、パパが正しいと思っていることであって
それが正解であるとか、絶対的なものではないということを伝えた。

そして、そういうことを考えて、自分なりの意見を持ったり
それを人と共有して修正したり、提案したり、行動に移したりするのが人生であること。
パパもまだ人生を歩んでいる最中であるから、考えは変わるかもしれないし
なにより、お前はまだ人生を歩み始めたばかりだから
こういう疑問を抱く、ということが素晴らしいと思うし
例えいちど、自分なりの結論を出したとしても、悩み続けたり
ほかの立場の意見を持つ人がいたら、耳を傾けることが
相手にとっても、自分の成長にとっても、社会にとっても大事なことであると伝えた。


僕がどんな「パパの意見」を息子に伝えたか、というのは
長くなるので、ここでは簡単に書くことにするが
まず、「人を殺してはならない」なんていうことはない、と伝えた。

「人を殺してはならない」というのを、絶対的なものに固定して
その上からすべて話を進めるというのはよろしくない。

まず、お前はなにをやってもいいし、なんでもできるんだ、と伝えた。
だけど、社会のルールとして、日本では「殺人はあかん」ということになっている。
そして、世界中のほとんどの地域で、そういうルールになっている。
なぜなら、そのほうが社会が安定すると、多くの人が信じているから。
だけど、それは、法律という社会のルール=「決め事」でしかない、と伝えた。

だから、「決め事」のほうが自分、或いは多数にとっても間違っていることもあるし
時代や状況によっては、変わってしまうこともあるということ
そして、ルールを犯しても自分の考えが正しいと思うなら、やればいいと伝えた。
なぜなら、パパだって、お前が目の前で殺されたりしたら
その相手を殺してしまうかもしれないから。

「自分が嫌なことを他人にはするな」と、パパはよくお前に言うし
基本的な判断方法として、抱いていてほしいと思うけれど
それだけだと「オレはべつに殺されてもいいぜ」というやつの殺人は止められないから
多少矛盾はあろうとも、すべての人を納得させられなくとも
「法律」という社会のルール=「決め事」が必要なんだよ、と伝えた。


その上で、パパの考えを言う。

「人はなぜ、人を殺してはいけないのか?」......ということに
なぜなっているのか? というのは、いままで伝えたとおり。

そして、「人は」じゃなくて、「パパは」基本的に
「人は殺したくない」と思っているんだけど、残念ながら、そこには理由がない。

理由はないんだけど、理由がないからこそ、それが大事だと思っている。

理由はないけれど、人が死ぬ、というのは嫌な感じがする。そして悲しくも思う。
ただただ、人が死ぬということは、とても悲しく思う。
自分が知っている人なら特に悲しいし、自分が知らない人でも悲しく思う。

人を殺してもパパは幸せを感じないと思うし、悲しく思うから、パパは人を殺さない。
だけど、自分や家族、仲間の生命が脅かされたら、人を殺すこともあるかもしれない。
だけど、結果的に殺してしまうことはあっても、人を殺そう、なんてパパは思わない。


だから、パパは、基本的に人は殺さない。

そして、社会のルールとして「人を殺してはいけない」というのは、パパも賛成している。


そんなところが、パパの考えだ、と伝えた。


実際には、もっと易しく伝えたと思うけれど
小学校4年生の子どもにどこまで伝わったかは疑問ではある。

だけど、そうやって伝え続けていくことが大事だと僕は思っている。


最後に、2つだけ聞いてほしい、と僕は言った。


1つは、どんなものにも、「絶対」なんていうことはないけれど
「自分の意見、自分の考えというものを持つことが、とても大事なんだ」、と僕は言った。

社会が言うから、みんながそう信じているから、なんていうのはよろしくない。
「自分はこういう理由でこう思う」というのを持て、と言った。

そして、そういうことを考え続けるのが、人生だということ。
社会は、1人1人が、それぞれ「僕はこう信じている」という積み重ねでしかなく
自分と違う他人の意見があったら、絶対に聞いてみるべきだし
人に訊かれたときに自分の意見が言えるよう、考え続けることが大事だと僕は言った。


そして、2つ目。
「想像力」が大事なんだよ、ということ。
「自分だけ」ではなく、「他人」のことも考えること。
「今日だけ」ではなく、「明日」のことも考えること。
「ここだけ」ではなく、「どこか」のことも考えること。

その「想像力」があるからこそ、人間なんだと僕は思うし
その「想像力」のおかげで、いまがあるし、未来がある、と僕は言った。
だから、想像力が豊かな人間は、人間的にも豊かだと言えるし
想像力が乏しい人間は、人間的にも乏しいと思う。
そして、想像力があるのに、知らないふりをしているのは
そんな無責任でずるいことはない、と伝えた。


と、そんな、息子との、2~3年前の会話を思い出した。

早いもので、この4月から、もう中学生になる。


この会話を思い出したきっかけとなった

「途轍もない災害と事故と事件」

について、まだ、息子と会話はしていない。


このままでは、僕は、父親ではなくなってしまうように思う。

このままでは、僕は、人間ではなくなってしまうように思う。


どういう社会を作っていくのか。
どういう未来を作っていくのか。


会話をしよう。

耳を傾けよう。

考えよう。


それぞれの家庭で。

それぞれの人生で。


大変、不謹慎な発言かもしれないが
日本という国、日本人にとって、大きな「チャンス」なのではないだろうか。

振り返るチャンス。前を向くチャンス。

せめてそのくらい言えないと、僕はもう苦しくてやっていられない。


反省すべき過去があるなら反省して

これからの話をしよう。


季節が変わる。

春が来た。


Posted by eno at March 25, 2011 03:53 PM


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