時間が経つと、すごい悲しさが襲ってきた。
試合後は、「内藤選手よくやった。亀田、あかんやろ」
というくらいのものだったが
時間が経つと、冷静な悲しさが襲ってきた。
悲しい現実が、頭をぐるぐるする。
亀田家は、「父と子」の家族だ。
母親は離婚しているが、その事実以上に、父の家なのだろう。
僕は、小さい頃に母親と離れ、ずっと父親と二人の家だった。
そんな「父と子」の世界で、父親ができることってなんだろうと思う。
父親のできることってなんだ?
母親がいる家庭であっても、「父と子」の時間は存在する。
父親には父親の役割がある。その子が男であれば、その役割と責任は大きい。
父親のできることってなんだろう?
ボクシングを始めたのは、いじめられっ子だった興毅くんに対して
強制的にやらせたことが、そのきっかけだったという。
「ボクシングをやめたい」というと、家の外に放り出し、食事を与えなかったという。
生活のために、解体現場で銅線を拾わせて、生活費にしていたこともあるようだ。
そして、あの父親を中心とした、家族が一丸となった練習風景。
試合でも、セコンドと選手という関係。
もう、完全なひとつの小さな世界である。
外の世界は関係のない、父と息子たちの完全な世界。
小さな世界にいる、互いだけを、互いが信じて生きている。
だから、あぶない。
だから、危険なのだ。
そんな小さい世界に生きていて
子どもが、親父を否定できるだろうか。
息子たちから見たら、この世界は、自分たち家族の小さな世界と
それに対する、「ほかの世界」と見えているだろう。
まるで、小さな洗脳集団のように思えるが
実は、息子たちは、冷静な目を持っていると思っている。
だけど、否定なんて、できるわけがない。
自分たちを育ててくれた親父を。
小さな世界に、親父だけを取り残すことなんて、できない。
「これでええんや」「これが正しい」
という父親という世界の主が掲げる、ルール、生き様、価値観から
ずれた行動さえ、できなくなってしまっている。
わかっているけど、できない、という、その現実が悲しい。
その悲しさを生んでしまっているのが、父親であることが辛い。
先日の試合前、次男の大毅くんが
相手の内藤選手に対して、「ゴキブリ覚悟しとけ!」と言った。
自分よりキャリアの長い、世界王者に対しての発言である。
こんな馬鹿な奴は、頭をしっかり殴ってあげなければいけない。
頭を殴ってやる人物が、存在しないということがなにより悲しい。
その役割が自分であるということをわかっていないばかりか
父親自ら「内藤はゴキブリの親玉やからな」と言う。
父親が息子にできることは
自分の価値観を、思い切りぶつけて育てることであろう。
自分が信じるもの、自分が正しいと思うことを
まっすぐ、息子に対して、ぶつけることであろう。
だからこそ
自分がぶつけた価値観を、息子は疑いもなく信じて成長することを認識して
なにが正しいのかを、しっかりと考えるべきだ。
しっかりと、考え直すべきだ。
例え、それまでの自分の人生を、或いは人生の一部を否定することになっても
自分の息子のために、しっかり考えるべきだ。
そして、息子が育ち、息子が少しでも外の世界に目を向けたら
思い切って、自分の世界から、解き放ってやること。
自分という存在から、巣立たせてやること。
親父である自分より、もっと大きな人間や、もっと豊かな人間が存在すること
世界は素晴らしく、世界はもっと広いということを
教えてあげることが、父親が息子にできることなのではないかと思う。
自分から解き放つこと。
そのとき、父としての存在は、一瞬「死」を意味する。
そして、それができるのが、「父親」という存在なのではないかと思う。