昨晩は、坂本さんのピアノツアー千秋楽。
昭和女子大人見記念講堂へ。
長男と。
最終日を感じさせる、素晴らしいコンサートだった。
後で書くけれど、あの「事件」がそれを物語っていた。
「素晴らしい終わり」だった。
こういうのは個人差あるだろうけど
僕は会場の、昭和人見の音というか空気がすごく好きで
それが理由で、追加公演は、オペラシティではなくこちらのチケットを取った。
追加公演は、あっという間に売り切れたようで、運がよく買えてよかった。
もちろん、オペラシティの音も素晴らしいけどね。
良い悪いでいったら、当然、オペラシティなんだろうけど
じゃ、どっち、と言われたら、単純に好みの問題で昭和人見にした。
「息子と坂本さんのピアノコンサートに行く日が来たかあ」
と、なかなかに感慨深い心境で、開演を待つ。
大きくなったものだ。もう11歳か。
演奏はどれも素晴らしかった。
行ってもないのに勝手に想像で書くけど
ある意味、「最終日」は、1日前のオペラシティだったのではないかと思う。
映像の収録もあったわけだし。
東京へ凱旋、的な感じもあっただろうし。
だから、昨晩の昭和人見のコンサートは
追加公演の追加公演、みたいな気分だったのではないだろうか。
坂本さんのMCや、ピアノ演奏、演奏中の坂本さんの身体の動き
演奏曲目や曲順を見て、そう感じた。
なんというか、打ち上げ演奏、っていうわけでもないけれど。
うまく説明するのが難しいな。
いずれにせよ、「これで最後だー!」という感じが最初から出ていたコンサートだった。
でも、たしかに、約1ヶ月半の長いツアー。
全24公演もやったわけだから、そういう気分になるでしょう。
個人的には、2曲目の響きや余韻を大切にしたインプロがよかった。
High Heelsが、かなりぐっときた。
kokoは嬉しかったなあ。Last Emperorが素晴らしかった。
カチっと弾いたMerry Christmas Mr. Lawrenceを生で聴くのは、何年ぶりだろう。
アンコールも2回が終わり
客電もついて、アナウンスも終わり、テロップも終わる。
しかし、客席の拍手は、鳴りやまない。
最終日の最後、もう終わってしまう、という理由が大きいだろうけれど
2回目のアンコールの最後のParolibreの演奏が素晴らしかった
というのも、客席の終わらない拍手を生んだと僕は思っている。
恥ずかしげもなく言うが、実は僕、Parolibreで泣いてしまった。
しかも、気付いたら、あれ涙が・・・という珍しい現象。
なんで泣いているのか、泣いたのか、いまでもよくわからない。
とにかく心が打たれたようだ。
ずっと続く会場の拍手。
鳴り響く、止まらない拍手。
さすがに......と、帰っていくお客さんもいる。
しばらくすると、ステージ横から顔を出す坂本さん。
(ここからiTunesでも聞けます)
しょうがないなあ、だけど嬉しいなあ、という表情でピアノへ向かっていき
3回目のアンコールに入ろうとする。
うん。素晴らしい。
アンコールというものは、こうでなければ。
拍手がいっそう大きくなり、歓声や指笛が鳴り響く中、坂本さんはピアノへ。
「え〜、お帰りになってくださらないので......、仕方がなく......ハハハ」
僕は、ここで、ライブを見た。ライブを感じた。
ツアーの最後の最後、ここにきてやっと、坂本さんのライブが始まった
とも言えるような空気だったのではないだろうか。
その場にいられて、幸せだった。
3回目のアンコール。
曲が始まる......
......が、なんと曲の頭で早速ミスタッチ。
演奏が止まる。
いままで、なんども坂本さんのコンサートを見ているが
ここまでのミスは見たことがない。
いや、ミスタッチではなく、完全にメロの指の運びを間違えてしまった。
鳴りやまない拍手で、3回目のアンコールにやってきて
さらに大きな拍手で迎えられ、照れながらピアノに向かい
あーこれがほんとに最後の最後だ、という心境、状況が
aquaという、坂本さんの曲の中でも、かなりシンプルで、スピードも遅く
今回のツアーでも半数近くの会場で弾かれた、慣れに慣れた楽曲での
しかも曲頭のメロディ間違い、なんていう
「奇跡のような素晴らしい」瞬間を生んだ。
演奏を止め、苦笑いする坂本さんに応える会場。
拍手と笑い。
すると坂本さんは、照れ隠しなのか、空気を改めたいのか
即興でジャジーな、早い動きのピアノ演奏を始める。
盛り上がる会場。
ライブだ。
ほんとに、最後の最後、その最後で、坂本龍一のライブ、その空間が生まれた。
即興のプレイが終わると、まったく間をおかずに
再度、ゆっくりと楽曲、aquaが始まる。
まるで、大暴れした後、突然、座禅を組むように。
いつもよりも、ゆったりしたaquaの演奏。
そして、曲が終わる。
深々と礼をして、手を振り、ステージから坂本さんは去っていく。
しかし、もう、誰も、さらなるアンコールは求めない。
もう、坂本さんを呼び込む、拍手が鳴り続くことはない。
なぜなら、そこにいた全員が、「終演」を感じたからだ。
素晴らしいコンサートだった。
素晴らしいコンサートツアーの「終わり」だった。
こんな「素晴らしい終わり」なんて、誰も想像しなかっただろう。
坂本さん、長いツアー、ご苦労さま。
「素晴らしい終わり」に頭がクラクラしたまま、楽屋に息子を紹介しに行った。
僕の息子と、坂本さんが、握手をしている姿というのは、奇妙なものだった。
息子よ。
この坂本さんという人は
パパがお前くらいの頃からずっと大好きな人なんだけど
今日、改めて、もっと好きになったんだ。
さすがに、この最近のフランス繋がりも、これが最後かと思うけど
フランスの雑誌、Amusementの取材を受けた。
最初に撮影をして、その後オフィスでインタビュー。
10日くらい前に、どこか撮影するのに良い場所はないか?
と訊かれたので、せっかくフランスの雑誌に出るのだからと
日本庭園を指定した。
フランスの人たちも、出来上がった雑誌を読んで
「おぉ、日本はやはりこういうところなのか、日本、美しい!」と
勘違いしてくれるに違いない。
スペインのクリエイターが、闘牛場で撮影されるようなものだ。
通訳もなく、直で英語で取材だったので、取材される前は
「あぁこりゃ、だいぶ疲れるだろうなあ」と心配だった。
取材はだいたい、いつも2時間くらいやるんだけれど
長い時間、英語を聞いたり喋ったりすると、疲労してしまうからだ。
きっと、普段使わない脳が、フル回転するからなんだけど。
しかし、なんだか、ずいぶんスムーズに、楽しく2時間が過ぎる。
理由を考えてみたんだけど、それは、相手がフランス人だったからだ。
喋るペースもそんなに早いわけではないし、訊いてくることも面白い。
なにより、相手がフランス人だから、英語が母語ではないわけで
英語が母語の人に取材を受けるときみたいな、「え、一体その単語なに?」
みたいなことがぜんぜん起きない。
日常で使う英語の単語が、ぜんぶで仮に10000あるとすると
英語が母語でない、フランス人の彼と、日本人の僕は、足しても
たぶん、1000くらいの単語でやりとりしているからだ。
これは面白いことに気付いた。
これから、外国のメディアで取材を受けるときは
相手が、英語を母語にしている国の人だったとしても
7歳の子どもに質問するように喋ってくれ、とオーダーすればよいわけだ。
それじゃ、ちっとも上達しないか。
あー、もっと英語が喋れる人間になりたいなあ。
とも思うが、「なんでフランス人と日本人が、英語を喋っているのだろう?」とも思う。
英語というのは、こうやって、ある意味、世界共通言語になっているのだなあ。
荷担している自分に、くそっ。
と、気付いて思った。
朝、新幹線で東京を離れたのに
あっという間に新幹線で東京に戻る。
新幹線の窓から景色を眺める。
いつもなら、ぼうっと眺めてやめちゃうんだけど
今日は、しばらく流れる景色を眺めていた。
気付くと、車内販売の女性が、座席と座席の間の通路を
商品の乗ったワゴンを押して、こちらに向かってくる。
疲れているのか、非情に無機質な表情で
無機質な動作で、無機的に歩いていた。
活き活きと動いて、ニコニコする義務はないんだけど
もっと活き活きとニコニコとしてほしいなあと思う。
その姿が、あまりにもすっとしていて
無機質な印象を受けたので
この役目って、そのうちの未来は
ロボットがやっているのかしらと、思ってしまった。
昔から、展示とかでロボットをよく見てきたが
二足歩行します、とか、踊ります、とか
ペットボトルのキャップが開けられますとか
そういう進化とは、まったく別の方向で
「人間に似せた」ということに目がいってしまう。
最近では珍しくなくなった、二足歩行ロボも
それなりに身長があって、というか人間に大きさが近くて
こちらを認識して、手とか挙げられてしまうと
なぜか、ある種、人間に近い感情を抱いてしまう。
もちろん、それはロボットだし
そんなに複雑な反応をしているわけじゃないんだけど
「見た目」というのが、こんなに大事なものかと
自分でも驚いてしまうくらい、そいつが人間っぽいと
どこか、生物だと認識してしまうようだ。
いや、ぜんぜん人間っぽくなくても
大きさとか形とか、反応などが、どこか人間に近いだけで
そう思ってしまうのだ。
しかし、生物の定義という上で考えると、それはかなり別の話。
細胞があって、代謝していて、繁殖するというのが
ざっくり、生物の定義だとすると、上に挙げたロボットというのは
どれも満たしていないから、さっぱり生物とは違う。
だけど、こちらが「わ、生きてる」とか、生物的な反応をしてしまうのは
見た目だったり、動きだったりするなあといつも思う。
そのうち、新幹線の車内販売の人がやってきて
「わ、よく見たらロボットじゃん!」という日が来るのだろうか。
家に帰ったら、「おかえり〜」とか言って
ソファーに座って、手を振ってくれる
ロボットが、一般的に買えるレベルで販売されるのって
いつくらいの未来の話なんだろうなあ。
坂本龍一さんと食事。
よく、お会しているように思えて
食事をするのは、久しぶり。
食事をしながら長い時間、楽しくお話させていただいた。
初めてお会いしてからもう12年くらいになるのかしら。
先輩は、変わらず、会うたび、いつも刺激をくれるなあ。
いまはピアノツアーの最中で、あと追加公演2つを残すところ。
僕も、もういちど、最終日に行くので楽しみ。
お会いする前も、iTunesでの配信を聞いていたので
なんというか、コンサート終了後に、楽屋にご挨拶にいって
感想をお伝えいたします、みたいなモードで会話をスタート。
ちょうど川口公演を聞いた直後だったので
Thousand Knivesのメロが追いかける新しいアレンジ、いいですね!
と伝えると、なんと数日前に夢の中で思いついて、早速試してみたとのこと。
そうかー。夢の中でもピアノライブやっちゃうくらい
今回の全国ツアーは、その長さも含め、生活に密着しているのだなあ、と思う。
さて。
そんな、僕と坂本さんの食事トークを
後に、みなさんにも、公開しようと思います。
収録してきました。
ただ、食事中のテーブルにEDIROLを置いてるだけですので
音はかなり悪いわけですが、ラジオやテレビや雑誌の取材とは異なる
坂本さんとの、普段着のトークを聞くことができますので
そちらを価値だと思ってください。
お楽しみに。
ただ流すのもどうかと思いますので
ちょっと確認&編集する時間が必要ですので
どうかしら、1週間後くらいには、公開できると思います。
会話のスタートは、ちょいと録音を意識しておりますが
少し経ってからは、完全に録音していることを忘れて
いつものトークになっております。
そんな日常の空気が伝わって、楽しんでいただければ嬉しいです。
さらに。さて。
僕は、以前、東京FMでラジオを長いことやっておりまして
どこかのタイミングで、また「誰かと会ってトーク」を公開という形を
と思っていたのですが、これを機にまたやってみようと思います。
ラジオではなく、この僕のblogで。
オーディオのファイルを、ただ貼り付けますので、お楽しみに。
Podcastとも思ったのですが、なんといいますか更新義務みたいなのを
感じるのが嫌で、せっかくラジオじゃないわけですから
まったく不定期に、とはいえ、それなりの更新頻度で
誰かをゲストに迎えて、気楽にトークをしたいと思います。
気軽にいきたいのです。
会話も、形式も。
その第一回目のゲストが、坂本龍一さんとなります。
録音しているのも忘れて、「気楽にトーク」というスタイル。
ぜひ、お楽しみに!
食事も終え、もう1杯飲む? と移動。
とあるバーにいくと、ピアノバンドが演奏してた。
「これ、いまから2人でステージに行って、マイク持って
突然ですが、いまから演奏して宜しいでしょうか? とお客さんに言って
僕がピアノ演奏始めたら面白くないですか?」と伝える。
「おめぇじゃねぇーよ!」と。
「裸になってなにが悪い」というのは心に響いた。
酔っぱらって出た言葉だし、実際にはいろいろ言っただろう言葉から
選んで警察が発表したものだし、細かいニュアンスも違うだろうから
それを引っ張って、どう、というのもおかしな気もするけれど
「裸になってなにが悪い」という言葉は、すごく強く感じた。
たしかに、なにが悪いんだろう。
もちろん、法的にアウト、なんだけど。
悪いには悪いんだろうけれど、そこまで悪いことなのか。
署から移送されようとする、彼の姿をテレビで見て
なんだか、ものすごく可愛そうになった。
別にどうでもいいじゃん、許してやれよ。
裸になって騒ぎたい、という気持ちは、ぜんぜん理解できるけどなあ。
通報を受けて行った、警察も許してあげればよかったのに。
彼の人生を考えて、なんとかうまく処理してあげられなかったのだろうか。
芸能人と一般人で差を付けるのはおかしいかもしれないけれど。
まあでも、通報した人と、目撃者がいる手前、難しいか。
しかし、そんな「逮捕」とか、そんなレベルの話かなあ。
警察に抵抗したのかなとか思ったんだけど
少なくとも、「公然わいせつ罪」で逮捕されているわけだ。
「容疑者」とか付いちゃうような話でもないと思うんだよなあ。
ところで、このblogを書こうと思って、記事を調べたんだけど
「全裸でベンチの上で「バーカバーカ」と言いながらでんぐり返ししていた」
とか書かれていて、その画を想像しただけで、あまりにも可笑しくて
「古谷実のマンガかよ!」と、逮捕への同情から、感動というか
どうにかして友達になりたいと、思ったりしたんだけど
よくよく読むと、通報した人の発言があって
「裸でベンチに座っているように見えた」というのと
「でんぐり返しを向こう向きにしていたようだ」というのが合体してるのね。
きっと。
その点は、ものすごく残念。
「でんぐり返しを向こう向きに」というのもよくわかんないけど。
「裸になってなにが悪い」というのは心に響いた。
悪いんだろうけれど、ぜんぜんOK。
OKどころか、楽しいやつだ。
そんなことくらい許せないと、つまらん社会になる。
人間じゃん。
海外のメディアからインタビューを受けることが、たまにある。
海外のメディアの対応で、難しいのは、英語力ではない。
生放送とかでなければ、どうにか自力でがんばればよい。
おかしな英語は、まともな英語に直して記事にしてくれる。
或いは、ディテールまでしっかり伝えたいなら通訳を付けてもらえばよい。
だけど難しいのは、「面白いインタビュー」にすることにある。
例えば
「『きみとぼくと立体。』、任天堂さんとの作品とは驚きました」
と、インタビュアーに言われたとする。
それに対して、日本のメディアからの取材であれば
「オードリーがDSiのCMに出てるのと、どちらが違和感あります?」
とか言えばよいわけですが(なにが「よい」のかわからないけれど)
これが、英語というか、海外メディアだと難しい。
それは、「海外のタレントを知らない」という意味ではなく。
もちろん、いくら知っていても
的確なところに、ボールを投げられるはずはないから
そういう発言が、できないわけだ。
ちなみに、この「タレント方面」というのは例えがしやすい。
「開発は何名くらいで?」とか訊かれたとき
「エグザイルくらい。あ、増えたほうの」とかね。
(実際には、開発の段階で増減するから、難しい質問なんだよね。
あと、テストプレイヤーとか、ちょっと関わる人とかもいるわけで)
この「面白くする」というのは、ただ単に面白ければ、というだけではなく
上記のように、応えるのが難しい、或いは、真面目に応えても
面白くなくなってしまう、という質問に対して、とても有効である。
例えば
「一緒に仕事されてみて、任天堂さんという会社はどうでしたか?」
みたいな質問は、困る。
正直なところ、ものすごく僕としては、有り難いコラボレーションだったし
学ぶことも多かったし、少なくとも、僕が会った人たちはいい人ばかりだった。
だから、それが僕の正直な意見である。
......だけど、正直にそう応えても、なんというか、照れくさいし、ウソくさい。
とはいえ、無理矢理、客観的な視点に立つのも、なんか違う気がする。
であるから、正直に応えるか、「知るか!」と言うしかない。
だから、そんなときは
「そうですね。思い切り走りたいときはBボタンが用意されているような雰囲気でした。
怒られて小さくなったり、誉められて大きくなったりの連続でしたので
しゅん、となったときは、いつもキノコを探してました。
もちろん、コインも探してたんですけど(笑)」
とか言えば、なんだかわからないけど、まあ面白いからいいや、みたいな感じになる。
こういう「逃げ」にも、有効なわけだ。
話が逸れちゃったけど......逸れてもないか。
こんなことが、海外のメディアを相手にすると、かなり厳しい。
例えば、上の例だと、かなり「言い回し」が上手じゃないと、うまく伝わらない。
単に「頭のおかしな人に会っちゃったな」みたいになってしまう。
こういう話は、スラスラスラと、相手の表情を見ながら話すから面白いわけだ。
だから、通訳を通して、なんていうのは意味がない。
或いは、通訳の人の能力、に頼ってしまうことになる。
以前、そういえば、ヨーロッパのメディアから取材があって
日本とアメリカとヨーロッパのマーケットの違い、みたいなことを訊かれたとき
なんとなく勝手に、ヨーロッパの人だから、ポリティカルな話題が好みかなと思って
思い切り、ポリティカル、かつ、ブラックな応えを返して、ドン引きされたことがある。
難しいものだ。
ちなみに、ちょっと前のものであるが
最近の海外のもので、最もロングインタビューだったのが、下記の取材。
<<ここをクリックすると、1up.comの、ロングインタビューにジャンプします>>
実は、これが初めて「家庭用ゲーム業界に復帰します」と明言したインタビューなんですよね。
楽しくいこう。
仕事での付き合いや、仕事での時間は仕方ない、というか
厳しさも必要であるし、スタイルの問題もあると思う。
母親の場合は、それは育児にあたるのかもしれない。
だけど、仕事に関係のない付き合いや時間まで、他人に厳しい人がいる。
いや、厳しいなんていうのは、良い言葉だ。
基本ネガティブというか、他人に対して常に批判的な人がいる。
これは、よほどその人が、しっかりしている人物なら別であるけれど
そうでないと、気付かずに、自分に対しても
常に悪い評価を下してしまうことになる。
評価軸とか、合格点の位置みたいな意味ではなく
スタイルとか、姿勢、もっと言ってみれば性格みたいなことだ。
人に接するとき、とか、人を見るとき
批判的に見てしまうことは、その人が、まともであればあるほど
心のどこかで、自分に対しても、同じように見てしまっていることになる。
これは、かなり心によろしくない。
或いは、人に対しては常に批判的であるけれど
自分に対しては甘い、という人も、それはかなりよろしくない。
自己に対するものと、他人に対するもので、そこがあまりずれてしまうと
文字通り、ゆがんでしまう。
ゆっくりと、ひずんでいってしまう。
こういうのは、積み重なっていく。
しかも、変えていくことが難しいことである。
もちろん、様々な理由があるのだろうけれど
心の調子が、このところおかしい、という人は
自分が他人をどう見ているか、また、自己と他人の見方で
どうずれが起きてしまっているかを、考えるべきだと思う。
そこに、大きな原因がある場合が多い。
また、他者に対して厳しく評価したり、悪い意見を言ったり......
それでも、まだ、直接的でも間接的でも
その相手と、繋がった状態であるならよいのだが
独りで呟き続けてみたり、相手のいないところで呟き続けると
自分で、自分の心が負担できなくなっていく。
自分の思いを投げているようで、投げ切れておらず
自分の心の中に、留まって、どんどん積もっていくからだ。
1週間くらい前に、知人に相談されたことがあり、このようなことを伝えた。
その人の目を見て、あまりにも心配になってしまった。
心というものは、あまりに脆い。
楽しくいこう。
そう伝えた。
ピアノが弾きたい。
弾けばいいじゃないか、と思われるかもしれないが
残念ながら、いまは我が家にはピアノがない。
坂本龍一さんの、ピアノツアーもずいぶん影響しているのだろうが
ここ最近、弾いてみたいなあと思うピアノ曲がいくつかある。
シンセもMIDIキーボードもあるので
ピアノ音を鳴らせば、ピアノを弾いてるっぽく聞こえなくもないが
そういうことではなく、本当のピアノが弾きたい。
贅沢を言わせてもらうが、電子ピアノでもなく、本当のピアノ。
どうしてもたまらないくらい、ここ最近ずっと
ピアノ弾きたい熱が高まっている。日に日に高まっている。
ピアノが置いてあるレストランも、カフェも知ってるんで
或いは、ピアノを持っている誰かの家に行って
弾かせていただいてもよいんだけど、そういう感じではなく
もう好き勝手に、数時間弾いていたいのだ。
最近は行ってないのだが、渋谷に三浦ピアノのスタジオがあって
なにかでピアノを演奏しないとならない機会があったときは
いつもそこに行って弾いていた。
いまの場所に移動する前からだから、ずいぶん長く通っている。
なんだけど、ちょろっと練習するには良いんだけど
所謂、練習スタジオなもんで、いっぱいブースがあるんで
周囲の音が、音漏れして聞こえてくる。
合唱の練習をやっていたりね。
満室のときは、隣のブースも、当たり前だがピアノを弾いているので
なんというか、集中して、ピアノ演奏、という感じではなくなる。
僕が弾いている曲も、周囲のブースで「あ、あの曲だ」と思われてるのかな。とか。
誰か、防音も完璧で、或いは1つしかブースがないとか
とにかく、周囲を気にしないで演奏ができればよいんですが
なるべく恵比寿周辺というか、東京23区の、西南方面で
どこか、ピアノを練習できる場所をご存じのかた、いらっしゃったら
ぜひ、教えてください。
誰にも邪魔されず、なにも気にせず、ピアノが弾きたいんです。
ピアノが弾きたくて、弾きたくて、たまらなくなってきた。
Chumby(チャンビー)の人たちと会う。
土曜の午前中からずいぶん刺激的な時間だった。
Chumbyというのは、エラく可愛くて
身体は小さいけれど、可能性が無限大の、デバイス。
パソコンがそうであるように、Chumbyも用途が限定されていない。
写真を見るビューアーにもなるし、音楽プレイヤーにも
ビデオプレイヤーにも、天気予報にも......なんにでもなる。
だったらパソコンでよいじゃないかと思うかもしれないが
Chumbyは、可愛くて、とても小さいのだ。
小さいから枕元に置くこともできるし
家族のテーブルの片隅に、ちょこんと座らせておいてもよい。
例えば、枕元だったら、目覚まし時計として使えばよい。
朝になって、Chumbyからカワいい声で起こされたら
そのままChumbyで音楽を鳴らしたり、ラジオを聞いたり。
さらにそのまま天気予報をチェックしたり......と、使い方は様々だ。
ベッドから起きて、Chumbyと一緒にリビングへ移動して
コーヒーを飲んでいる間、YouTubeを見てもよい。
こういうプロダクトの場合
「いろんなこと」ができても、いろんなことには限りがある。
だけど、Chumbyは、ほしいものがあったら作ることができる。
自分で、こんな機能があったらいいなあと思ったら、作ればよい。
或いは、誰かが作ったものを、ダウンロードすればよい。
みんなが作って、みんなが使えば
「Chumbyができること」というのは、無限大に拡がる。
ずいぶんと楽しく、オープンで、未来を感じるやつだ。
写真は、CEOのStephenと、開発者のBunnie、日本の吉岡さん。
恵比寿のオフィスの前で。
オフィスに来ていただいた記念写真。
うーん。なるほど。面白い設計思想だ。
しかも、Chumbyというのは、特定のプロダクトを指すのではないらしい。
フォトフレームにChumbyが入ったり、クロックラジオのChumbyが出たり
Chumbyの機能が付いたテレビなども予定されているとのことで
オープンなプラットフォームの設計とサービス
そして、なによりその思想がChumbyだということだ。
なんか、ちょっとずつ楽しい未来になってきたなあ。
なにより、ハッキングできてオープンであるという
その立ち位置が素晴らしい。
日本でも発売が始まって、日本語化もすぐ、とのことなので
興味がある人は、調べてみてください。
プログラムが書ける人には、最高のデバイスじゃないかしら。
あと、これで開発を覚える、というのもいいと思うんだよなあ。
<<ここをクリックするとChumbyのサイトにジャンプします>>
面白いものを作った人たちに会えて、すごく刺激的だった。
いい土曜のスタートだ。
まだ、昼過ぎだもんなあ。
フランスの雑誌、Pix'n Loveから取材を受ける。
といっても、新作のことではなく、僕個人についてのインタビュー。
なんでも、Florentという写真の彼は、僕の過去に書いた本を
いろいろ持っていて、読んでくれているとのこと。
それで興味を持ってくれて、今回の取材の話となった。
だからなんだけど、とにかく僕のことをよく知っている。
インタビューというのは、基本的には質問→回答という形で
行われるわけだが、その質問がまぁずいぶん細かいというか、ディープというか。
僕が忘れちゃってて、答えられない質問までされるとは思わなかった......。
途中でお茶を吹き出しそうになった質問もあった。
ありがたいことだ。
途中、少しでもくだらないことを言おうと思って
「フランス語で、『新作はWIIのゲームなんですよね?』
と訊かれたら『ウィ』と答えればいいんだよね?」
と言ったが、あまりウケなかった。
インタビューも終わり、フランスの話で盛り上がる。
「パリは好きじゃないけれど、パリ以外のフランスが好き。特に田舎」
なんていったら、ものすごく理解してくれた。
フランスかあ......。懐かしいなあ。
数日前にも書いたが、最近、フランスが何故か続いている。
「これはいったい、なんなんだろうなあ......」、なんて思っていたら
たまたまそのとき、別のフランスの雑誌から、取材依頼が入る。
なんなんだこれ。
ボンジュールということか?
ボンジュール、フラーンス、なのか?
これ以上、フランスが続いたら、久々にフランス語でも勉強しようかしら。
今週だけで、とても、フランスが近くなった感じがする。
斎藤由多加と会った。
彼は『シーマン』や『The Tower』のクリエイター。
どのくらいぶりで会ったのだろう。
7年とか8年とか......、いやもっとかしら。
久々に会うと、いろいろな会話が生まれる。
この7年とか8年、互いがなにを思って
なにをしてきたかを相手に伝える。
それだけでも、なかなかのものだ。
人生の1/5くらいの期間なわけだから。
昔のこと、いまのこと、最近のこと。
いろいろな会話を重ねていく。
題材は、あれこれ変化していくが
結局、すべて、価値観を交換していたのではないだろうか。
長い期間会わないと、自然とその行為が多くなるようだ。
誰々について語る。
何々について語る。
それらはすべて、価値観の交換であった。
自分はこう思うと相手に伝え、反応を得る。
それによって、忘れかけていた
或いは、暫くの間で変化している
相手のカタチを認識し、自分のカタチを相手に伝える。
タケノコが美味しかった。
坂本龍一さんの今回のピアノライブツアーに行ったことは
約1ヶ月くらい前にこのblogで書いたが
坂本龍一さんのツアーはまだ続いている。
通常であれば、ツアーが続いているといっても
それはアーティストが全国を回っているだけで
オーディエンスのこちら側には、あまり関係ないことだが
今回は、実際に僕も続いている。
なぜなら、ツアーすべての、コンサートの内容が
だいたい1日遅れくらいという、ものすごいスピードで
iTunesで、リリースされ続けているからだ。
昨日のライブを今日聴くことができる、という試み。
当初、この話をきいたときは
「昨日のライブが今日」というスピードだけを注目していた。
面白い試みをするものだと思っていた。
だけど、実際にダウンロードして聴いてみると
そのことよりも「ライブ丸ごと」収録されていることに
大きな価値があることがわかった。
ピアノのライブアルバムというのは、ありふれたものだが
「ライブ丸ごと」入っているというのはあまり多くない。
しかし、今回の試みは、すべての楽曲が、頭から最後まで
演奏された順番で入っているどころか、MCまですべて入っている。
いや、楽曲とかMCとかいう単位ではなく
ライブの頭から最後まで、ぜんぶ入っているわけだ。
だから、リビングで、寝室で、どこでも
今回のライブアルバムを買って、頭から聴けば
そこがコンサート会場になる。
「どこでも坂本龍一コンサート」みたいなソフトである。
お酒を飲みながらでも、タバコを吸いながらでもよい。
ライブのスタート時間に間に合うよう、慌てる必要もないし
ライブ中、トイレや、お腹がなったりなど、気にする必要もない。
これはよい。
ものすごくよい。
ライブというのは、ライブに行ったほうが良いに決まっているが
「ライブ丸ごと」配信となって、ここまでの価値が別に生まれると
比べるものではなく、また違う楽しみかたがそこにある。
ツアーすべてを配信するという試みなので
この時点で、16公演ぶんが、もうすでに購入することが可能。
当然のこと、演奏された楽曲をチェックすることができるので
自分の好みの曲が多く演奏されている公演を購入するというのが
通常なんだろうけれど
内容の曲目を見ずに、テキトーに「ここ!」と
どこかの公演をざくっと買ってしまうことをおすすめしたい。
そして、頭からゆっくりと楽しむ。
曲が始まって、この曲かー、と喜んだり驚いたり。
あの曲やらないかなー、と思ってみたり。
坂本さんの曲にあまり詳しくない人であれば
新しい楽曲との出会いもあるだろう。
ぜひ、週末にでも、2時間、時間を取って。
あなたのその場所を、坂本さんのピアノライブ会場に。
なかなか、素晴らしい試みであると思っています。
坂本さんとは、来週、お会いするので、楽しみだ。
そして、再来週は、ツアーの最終日に、もういちど行くことに。
そして、ツアーが終わってからも......配信でまた楽しむことだろう。
昨晩、パリ在住のミュージシャン、半野喜弘さんと会う。
今日、夕方オフィスに来たのは、ブランドのクリエイティブ
をやっている、フランス人のトーマス。
いま会ってきたのは、アートディレクションをやっている
マルセイユ生まれのローラン。
たまたまであるが、フランス繋がりだ。
フランスがなにか僕を呼んでいるのか。
そんなことはないだろうが
いろいろ話しているうちに、フランスでの記憶が蘇る。
もうずいぶん、フランスには行ってないなあ。
初めてフランスに行ったのは、もう15年近く前だろうか。
パリには、僕は残念ながら、あまり魅力を感じないのだが
フランスの田舎がすごい好きになった。
ちょっとした街。
ちょっとした小道。
ちょっとした風景。
景色も、小さな街も、人々も、流れる風も、文化も
日本とはさっぱり違う、フランスに、割と大きな衝撃を受けた。
うーん。
なんの仕事も理由もないんだろうけれど
久々に行って、ぶらぶら歩いて、刺激受けたりすることも必要かなあ。
それよりも、まだ行ったこともない都市へ行くべきかしら。
いずにせよ、オンラインや本とかじゃなくて
普段とは違う街を歩いて、空気を吸って、人とコミュニケーションして
受ける影響というものを、もっと大事にしないといけないなあ。
「『きみとぼくと立体。』の設計」、ついに最終回です。
もう、四回目となりました。
今回は、「仲間との開発」について書きたいと思います。
「仲間」というのは、一緒に開発をしてくれた「仲間」のことです。
この作品は、任天堂さんを含め、一緒にもの作りをしてくださった
メンバーに非常に恵まれていたと、いまも感じています。
「良い開発チームとはどういうものか?」というのは
人によって、定義が違うでしょうけれど
僕にとっては、少なくとも、開発が終わった結果、楽しかった思い出が残って
なにより、自分で「良い」と思えるゲームができたことが
良い開発チームだったのではないかと思います。
開発のスタイルは、人それぞれだと思います。
僕の場合、企画をやって後は監修、という形ではなく
開発のディレクションも、アートディレクションも行うため
「たまに出来たら見せて〜」という感じではなく
かなり頻繁にディレクションをする必要がありました。
ディレクションというのは、全体をまとめながら、個々に「指示」をすることです。
「ここはもっとこうしよう」とかいう、漠然としたものから
「あと0.5秒くらい早くして」とか細かいことまで、状況状況で指示をしていくのが仕事です。
出来上がったものを見て指示を出すこともあれば
「ここは、どうしたら......?」という相談や質問、疑問に対して応えていく。
そういった、ディレクションの仕事、というものを
どうすれば効率がよくなるか、ではなく、どうすれば結果良いものができるか?
というふうに、僕は捉えています。
このゲームの場合、開発テーマが「ユニークでシンプルで奥深いもの」
と決まっていましたので、「それを実現するには、どうすればよいか?」を考えました。
考えた、といっても、結果、いつもの僕のスタイルでもあるのですが
「みんなで一緒に多くの時間を共有する」ということにしました。
全体ミーティングを、週に1〜2回持って、そこには全員参加することにしました。
そこには、部長とか、年配者とか、アシスタントなど、そういうものは存在しません。
もっといってみれば、自分の所属するパートのチェックの時間、を除けば
デザイナーだろうが、プログラマーだろうが、役職は関係なく
なんでも口に出して、なんでも考える、というふうにしたかったのです。
そうすることによって、まずは、僕の真意が、しっかり伝わります。
伝言ゲームでもなく、仕様書でもなく。
例えば、なにか議題となる題材があったとして、それを誰かが投げる。
すると、僕が「うーん」と考える。場合によっては誰かに訊いたりする。
訊かなくても意見が出たりして、それに対して、僕が応えたりする。
最終的に、「こうしよう」というのを、僕が決める。
たったこれだけのことでも、どういうプロセスを踏んで
どう僕が迷って、悩んで、それを、どういうふうに伝えて、そして
その背景にはどういう理由があって、など全部伝わる。
というのと、結果の仕様だけ伝わる
というのでは、僕は、ぜんぜん開発の最終形が変わると思います。
効率ではなく、結果を求めて、そのような形で進めたほうが
最終的には、実は効率がよくなる、のです。
ただ、このようなスタイルには、慣れない人も、嫌だという人も、当然います。
自分の仕事だけやっていればいいや、という人もいます。
或いは、基本的には、そのスタイルには賛成していても
開発が終了に近づいて、時間がなくなっていくと
「こんなミーティングに参加するより、自分の仕事がしたい」と
みんなが思い出します。
僕はそれを当然のことだと思っています。
ワールドカップの決勝に行けるかどうかという試合の前の日に
フリーキックやシュート練習がしたい選手に対して
チーム全員のミーティングに参加してくれ、というようなものですから。
実際の話、このゲームの開発でも、最後のほうで、そのような意見が出ました。
「回数を減らそう」とか「半分の時間が過ぎたら必要ないメンバーは開発に戻ろう」とか。
僕はこう言いました。
「これ、みんなで作ってるんだよ!」
いま思い出すと、なかなか恥ずかしい感じですが
そのようなやりとりがあって、それでも意思は曲げなかったおかげもあって
そして、なにより、最終的には、みんなが納得して、ついてきてくれたおかげで
面白い、ユニークなゲームができたと思っています。
思い出話をもう1つ。
僕は、全員参加のミーティングが、少しでも楽しくなればと
いつもいつも「お菓子」を用意することにしました。全員ぶん。
どら焼きだったり、ブランマンジェだったり、オペラだったり、饅頭だったり。
週に1〜2回ですから、ぜんぶで100回以上......もっとかな?
あったと思うのですが、僕は、毎回毎回、「異なるお菓子」を用意しました。
なるべく、違うお店で買って。もちろん、美味しいお店で買って。
たぶん、3〜4回は、忘れててダブったこともあると思いますが
いつもいつも、テーブルの上には、いつもと違うお菓子が、人数ぶん置かれていました。
どんなに忙しいときも買いにいきました。
お店を選んで、どのお菓子が良いかを考えて、季節なんかも気にしたりして。
そんなことが、「面白いものを作ろう」「ちょっとでも楽しくしよう」という
ゲーム開発にとって、ものすごく大事な「考え」というものに入れ替わって
みんなに伝わっていったと、僕は思っています。
最後になりますが、開発のメンバーのみんなに、感謝をしたいと思います。
僕は、このゲームを作っている間、世界中で
どれだけのゲームが開発されていたかわかりませんが
世界で一番、クリエイティブで、楽しく、そしてみんなが成長した開発だったと
心から思っています。みんなも、そう感じてくれていると思います。
そんなことは、滅多にない、有り難い、とてもステキなことです。
重ねまして、ありがとう。
そして、僕と、最も多くの時間を共有してくれた
最大の仲間である、山田秀人に、改めて、感謝をしたいと思います。
彼がいなかったら、このゲームはできませんでした。ありがとう。
少なくとも、もっとつまらないものになっていた。ほんとにありがとう。
最後に、任天堂のみなさんに対しては、この出会いも含め
こんな素晴らしい機会を作ってくださって、感謝致します。
困ったとき、いろいろなヒントを与えてくださいました。
困ったとき、一緒に悩んでくださいました。
僕は、このゲーム、『きみとぼくと立体。』を作っているとき
1つ、大きな不安がありました。
1つ、ずっと大きな不安を抱えていました。
最後まで、誰にも言わなかったことなのですが。
それは、せっかく家庭用のゲーム作りに戻ってきたのに
最後、「もう作りたくない」と思ってしまったら、どうしよう、ということでした。
それがどうなるか、最後に、僕はどう思うのか
まったく、どう感じるか、わからなかったので、ずっと不安でした。
僕は、強い人間なので、苦しいことなんて、乗り越えられる自信があります。
辛いことなんて、すぐにポジティブに変えてしまいます。
だけど、「最後、どう感じるか?」なんて
そればかりは、わからなかったので、ずっと不安でした。
もちろん、できれば、何本か、せっかく戻ってきたなら作りたかったからです。
ほんとの最後になりましたが、一緒に開発してくれた仲間に改めて感謝します。
「また、もう1本、作りたいな」と、いま、心から思っているからです。
ありがとう。
昼と夜では
どうしてこうも、世の中が違って見えるのだろうか。
あたりまえのことではあるが。
太陽の光が、あるかないか、だけではない。
人工の光も、夜の景色を特徴付けている。
昼になれば、太陽の光が輝き、夜になれば、その存在はなく。
夜になれば、人工の光が輝き、昼になれば、その存在はない。
都市の昼の風景。
都市の夜の景色。
タクシー会社の正面にある、ビルの上から見下ろす。
タクシー置き場......と思わせておいて
実は、アートなのではないかと思うくらい、美しい眺め。
タクシーの黄色の光が目に強く届く。
望は、ビルの階段の窓から、タクシー会社を見下ろしている。
風が吹いたので、顔を上げると、向かい側には茶色いビルが建っていた。
望の顔がぴたっと止まる。
真っ直ぐ前を向いたまま。
ちょうど自分の居る、窓の位置と同じところ。
正面のビルの同じところ。
ちょうど目と目が合う位置に
正面のビルにも窓があり、それが開いている。
そして、そこに居るのは......「自分」......。
こちらを凝視している。
にやっと笑ったようにも見えた。
いまから3年近く前。まだ寒かった春の日の夜。
望が、自分の秘めた力を知ってしまった、あの事件から。
望は、春が来るたび、もう1人の自分と会うようになった。
まだ、冷たい風が、顔を撫でる。
見ると、正面の窓には誰もいなくなっていた。
しばらくすると、望は、階段を降りる。
6階から1階までの、長い距離を、少し慌てて降りていく。
2階から1階へは段差が広くなっていた。
......!
望はなにかを感じ、立ち止まった。
ゆっくりと、階段の先、1階の階段口前を見ると
そこには、さっきの「自分」がいた。
自分であるが、自分ではない。
自分そっくり、というだけでもなく
どこか、見た目だけの話ではなく
あれは、自分自身だ、と言える、不思議ななにかを感じる......。
自分自身は、こちらに近づきながら、言葉を発した。
「元気そうじゃない? それよりレモンのこと、思い出した?
「......レ......レモン......」
「いやね......、ほんとにわかってないの?」
「だから、なんのことって!......」
望も、僅かながら、前へ進む。
2人の距離が縮まっていく。
「.....しかたないわね。......ねえ?」
「......なに?」
「最後に......レモンを食べた日、のこと、覚えてる?」
「最後にレモン......どういうこと?」
「3年前。......雨が降っていたわ。あなたは小さな駅にいた」
「駅......」
「誰もいない駅。山奥の、誰も行かないような、小さな駅に」
「赤間山のふもとの駅......のこと?」
2人の距離は、もう僅か数メートルだ。
「そう......。あなたは知っていた」
「なにも知らないわ!」
「あなたは知っていた。関東地方が壊滅するまでの被害となるあの事件......。
そう......、あの事件が「起きる」ということを、知っていた......」
「......」
「二宮くんに旅行を勧めたけど、聞く耳を持ってもらえず......
終いには異常者扱いまでされて、あなた、悲しんで泣いていたじゃない......」
「ど、どうして、そんなことまで......」
「私の、この頭にも、その記憶があるからよ、望」
「あなたは、誰?」
「そんなことより、レモンのことだけど......」
「......」
望は俯いて、考えた。
「最後にレモンを食べた日、のこと......思い出した?」
「......去年の夏。......とても暑かったわ......」
「その日が、世界の1/10が失われた日、というのは覚えてるわよね」
「......最後にレモンを食べた日......」
僕はあまりテレビを見ないほうであるが
最近は、テレビ番組を見る時間が、ずいぶん増えてきたと思う。
ハードディスクに保存したものから
たまに時間があれば見る、ということばかりだが。
先日、たまたま知った「お試しかっ!」という番組の
「全て当てるまで帰れま10(テン)」という企画がよくできている。
くだらないが面白い。
ファミレスやら居酒屋やら回転寿司屋に行って
6人のチームで、その料理屋の人気メニューベスト10を
当てるというものだ。すべて当てるまで帰れない。
チームで1人ずつ
「和風ハンバーグ!」とか「ミートドリア!」とか言って
ベスト10に入っているメニューを当てていくわけだが
そのメニュー宣言した後、料理を実際に、チーム全員で食べないとならない。
食べた後で、ランクインか否か、そのメニューが何位かがわかる。
しかし、なかなか、トップ10全てのメニューを
当てるのは難しいため、ずっと食べ続けることになる。
そのうち、時間もずいぶんと経って眠くなり、チーム内の空気は悪くなり
食べ続けることがお腹が膨れ、もう食べたくないと、険悪になる。
よくできていると思う。
まず、料理モノ(食事モノ)ということで
ちょっとした最低限の、情報が担保される。
そこだけ切ったら面白くはないだろうが
「食べ物番組」としての、最低線があるわけだ。
ここは、このくらいで省く。
そして、クイズ番組的な要素もある。
しかし、ずいぶん変わったクイズ番組となっている。
チームのうちの誰か、回答者がメニューを眺め、「これかなあ?」なんて言って
「串焼き盛り合わせ!」などオーダーするわけだが
番組を見ているほうは、メニュー=回答の選択肢を知らない。
普通、クイズというものは、見ている側も一緒になって考えるわけだ。
しかし、この番組では、その居酒屋や、ファミレスによく行っている人
そこのメニューを把握している人でいなければ
よくあるクイズ番組のように、一緒に回答することはできない。
そのメニューを持っていないからだ。
それが見事である。
だから、「串焼き盛り合わせ!」など回答者が選択したのをきいて
「いやー、それはないなあ」とか「5位か6位くらいか?」なんて
「どうなるか」を予想することになる。
その立場は、そのチームの回答者以外のメンバーと同じ立場である。
「そりゃ入ってないよ!」とか「それいけるかも!」とか。
そして、「第何位」という結果をきいて
「やっぱりなあ」とか「え、そんなものなの?」とか「あ〜あ」とか。
これが、10種類のメニューから、第1位のメニューを当てる
という企画であれば、ぜんぜん違うところだ。
視聴者の立場としては、回答者とイコールになってしまう。
それが、普通のクイズ番組、或いは、クイズ要素を持った番組だ。
しかし、この番組では、視聴者は、もちろんある意味回答者でもあるけれど
完全な回答者にはなれない。なぜなら、テレビの中の回答者が持っている
「メニュー」=回答の選択肢、をこちらは持っていないからだ。
それによって、回答者ではなく、トップ10に入っているか否かを思う
チームの回答者以外と同じ立場になる。
そこが非常に上手だと思う。
そして、当然、トーク番組としての要素も持っているわけだが
トーク番組としての、設定も優秀である。
トーク番組というのは、どのようなトークが生まれるかを
上手にナビゲートするための、「装置」である。
「装置」の設計が、なにより重要である。
だから、お題に従ってゲームをしてみたり
わさびが大量に入った寿司を当ててみたり
ゲストの嫌いな食べ物を当てたりするわけだ。
この番組では、回答者はチームから1人ずつであるが
出てきた食事を、食べるのは全員である。
トップ10をすべて当てるまで帰れないのも全員である。
全員の連帯責任という図式が、見事に機能している。
対戦相手はそこにいない。
相手となっているのは、人気メニューベスト10というデータと
自分自身、そして、チームのメンバーである。
食べ続けなければならない食事。
膨れていくお腹。
過ぎていく時間。
眠くなり、苦しくなり、疲れとイライラは頂点に達する。
回答者という、個人責任のプレッシャーと
出てきた料理を完食する、連帯責任のプレッシャー。
面白いトークが生まれる、見事な設計である。
こういう番組を見ていると
テレビを作る人たちというのは
ほんとうにテレビを作るのが、うまいんだなあと、感心する。
でも、間違ったりするのだろうか。
画的にもよいからと、そのうち高級レストランでやったりするのだろうか。
「自腹」といった、意味のない約束が出てきたりするのだろうか。
「熱い」とか「辛い」とか、安易な要素を加えてしまったりするのだろうか。
「全て当てるまで帰れま10(テン)」は
料理+トーク+クイズ、番組の企画として、1つの完成形ではないかと僕は思う。
そして、こんなことblogに書いて、なにがしたいんだ、とも思う。
そんな土曜の午前中。
ところで、ヨシナガさんとのトークライブ
もうチケット、残りかなり僅か、とのことです。
かなりギリギリかと思いますが、「行くぞ」という方はお早めに。
ブン、ブン、ブーンとミニカーを押して、次男と遊ぶ。
次男がパトカー、僕がバスの役、ということらしい。
よく見ると、パトカーはドイツのパトカーで、僕のバスは都営バスだ。
なんだか、バカにされているような気もするが
2歳手前の子どもに、そんな意図もないだろうと、許諾する。
一緒にソファの上を、ブン、ブン、ブーンと走っていると
次男のパトカーは、すぐに、僕のバスにぶつけてくる。
ちょっと走ったらガシーン。またちょっとしたらガーン。
「お前、パトカーだろ」、と言っても、にっこり笑うだけ。
走るたびにぶつけられて、さっぱり面白くないので
ぶつけられるたびに、「ワー!」とか「ヒィー!」とか言って
ぶっ飛んで、すっ転んで倒れる、というアクションを加えた。
するとバカ受け。
さらに何度も何度もぶつけてくるようになった。
走ったそばからぶつけてくる。
ガツン、ガシン、ガシャーン!
暴力警察だ。
しかし、こっちがぶつけても、無反応。
無反応どころか、オレはやるぜ的な感じで仕返してくる。
そのたびに僕は「ヒャー!」とか言って、横転。
ちっとも面白くない。
その後、風呂に入れてやる。
髪の毛をシャワーで流そうとすると、ワー、とか言っていやがる。
「お前、さっきの元気はどこいったんだよ!」と、気にせずに流す。
都営バスの運転手が、ドイツの暴力警察に、仕返しする場面だ。
その後、カミさんが長男に勉強の確認をするというので
ベッドで、次男に、絵本を読んであげることに。
都営バスの運転手と、ドイツの暴力警察が、ベッドで絵本を広げる。
絵本といっても、言葉や話がわかるわけでもないので
動物を指さして呼んだりと、そういう遊びかた。
ヒヨコが出てくるたび、「チョウチョ、チョウチョ!」と騒ぐ。
蝶々じゃねえってと言っても、チョウチョ、チョウチョと喜んでいる。
イチゴを見つけるたびに、お腹をくすぐって
ゲラゲラゲラという、独特の遊びを見つけて、盛り上がる。
1時間近く絵本遊びをしていたら、ぐったりしてきた。
子どものパワーというのはものすごい。
次男はミルクを飲んで、僕はお茶を飲んで、寝た。
「『きみとぼくと立体。』の設計」、第三回となりました。
第三回目となる今回は、「2人プレイ〜協力と対戦」について書きたいと思います。
このゲームの1つの大きな開発テーマであり、とても苦労した部分ですので
それを取り上げることにしました。
実はこのゲームは、2人プレイから先に作りました。
もともと、「未来のおもちゃ」を想定して作ったゲームなのです。
現在ではできないけれど、いつか未来には、実現しそうなおもちゃ。
例えば、テーブルの上に、肩幅くらいの大きなキューブが浮いていて
(さっそくここが、現在では実現が難しいわけですが)
そこに、小さな人形を、ぽいぽい投げ込んで遊ぶ。
キューブは、人形の重みで傾いてしまう。
人形は、まるで生きているかのように、自律して動きまわる。
(ここも、実現不可能ですね、いま作るのは)
キューブが傾いたら焦り、倒れたり、助け合ったり、滑り落ちたり......。
なんておもちゃを考えました。
それが、スタートでした。
単にそれを1人で遊ぶより、2人でぽいぽい投げ合ったほうが
いろんなことが起きて楽しいだろうなあと思いました。
そんな思いもあって、当初はちょっと違うルールだったのですが
2人プレイのゲームから作り始めました。
逆にいえば、1人プレイのゲームは、どうにかなると思っていたのです。
実際には、そんな簡単なものではなかったわけですが......。
2人用で面白いものができれば、1人用、2人用と
それぞれ、異なる要素を入れ込んで、仕上げればよいだろう。
なんて思っていました。
そんな思いが、間違いだったかどうかは別として
いずれにせよ、2人用ゲームから先に作り始めたのです。
その「2人用ゲーム」のテーマが、「協力しながら対戦する」というものでした。
当初は、それがなにを示すか、というのは、かなり漠然としていたのですが
このゲームの2人用プレイを考えるとき、対戦型にするか
協力プレイ型にするか、真剣に何度も考えました。何度も議論しました。
協力プレイのほうが、新しい面白さを生み出せるような気がしましたし
このゲームの持っている雰囲気に合っていると、考えましたが
やはり、「協力だけ」、というのは、なにかちょっと物足りない。
スパイスがないといいますか、合ってるんだけど、ちょっと違うよねえという。
その結果、「基本的には協力プレイだけど、最終的には対戦」という
かなり無理なテーマを発見し、それを目標としました。
出来上がったゲームをやっていただければ、それが、その通りの答えなのですが
そこに至るまでは、かなり試行錯誤がありました。
例えば、プレイ中、最初のお題をクリアしたとき
CUBE1をクリアして、CUBE1からCUBE2に移行するときです。
そこで、「現在の成績」を出せば、プレイは盛り上がります。
その場で、1ラウンドごとに「勝ち負け」を決定づけてもよいですし
「現在の結果」みたいなものでもよいと思います。
ですが、それでは、「協力」という感じが薄れてしまう。
常に「勝ち負け」を意識しないとならなくなってしまう。
そんなこともあって、ゲームをクリアした後に
「というわけで、では......!」みたいな形で、成績発表をすることにしました。
それまでは協力プレイしていたのに
最後になって、突然、「勝ち負けどっち!?」というふうに転換する。
まるで、マラソン大会で一緒に走っていたのに、最後になって
ズババババと走っていくような。「最後、そこかーい」、という。
ちょっと違いますか。
いずれにせよ、このことによって、ちょっとした不安定さが生じます。
それがやりたいフィーリングだったのです。
基本的には、そうすることによって、プレイ中は、勝ち負けを意識しない。
そんなこと考えているより、クリアすること、を、2人は目指すわけです。
その結果、どのくらいの成績だったかが表示されて
さらに、その結果、「どちらが勝った、負けた」、となる。
結果論的な、勝敗です。
しかし、そんなプレイを繰り返しているうちに、2人のプレイに余裕が出てきます。
すると、ゲーム中から、ある程度、最終的な「勝ち」、を意識したプレイが出てくる。
「ん? ちょっと、ひょっとして『勝とう』としてる?」
というような。
そんな関係性が面白いなあと思いました。
「そんなこと考えているから、失敗したじゃん!」とか。
「考えてないって!」とか。
もちろん、さらに上手くなれば、ある程度、協力を忘れてプレイしても
それぞれのスキルで、クリアができるようになり
そうすると、最初から、「勝った負けた」をゴールとするプレイもできるようになる。
そんな拡がりが、プレイを繰り返すことによって、生まれればよいなと思い
協力と対戦の、その価値を、どちらにどう置くか、というのは
プレイヤーのスキルと考えに任せてプレイできるようなゲーム設計にしました。
プレイヤーによって感じる大小は別として、なにより、それによって
「新しいフィーリングの1つ」が生まれたことは、大きかったと思います。
そして、もう1つ。
さらにもう1つ、最後に、おまけを付け足しました。
それは、勝ち負けの後の、「2人の相性」というもの。
どういう要素で算出しているか、を伝えてしまうと、面白くなくなってしまうので
ここでは書きませんが、いくつかの要素によって、2人の相性が表現されます。
ハートマークがいくつか、というのと、それを表現した文章。
ま、くだらないのですが、「プリン半分に分けてます」とか
「ネコとアヒルが恋愛中」とか、そんなものです。
なぜ、この「相性診断」を付けたかといいますと
「協力」の末、クリアして、最後、「勝った負けた」で終わってしまうと
なんというか、ちょっとフィーリングが違うと感じたのです。
そんな思いで、最後、「2人の相性」を表現することにしました。
表現的には、くだらない感じで。
だけど、実際、うまく2人がプレイすると、評価が高くなったりして
それはそれで、「リアルな結果だなあ」と、2人が感じたり。
いまだに覚えているのは、テストプレイのときでした。
多くのテストプレイヤーさんに、テストプレイしていただきました。
メインはデバッグをしてもらいつつ、感想もいただく、という。
まだ、最後のテストプレイ、という感じではないときです。
そこで、この、おまけのように付けた「相性診断」の評価が高かったのです。
「面白い」と書いてくださる人が多かった。
とくに「上司と部下」とか「男性と女性」など
ちょっと距離がある関係のほうが、面白い。盛り上がる。
このゲームの2人プレイは、結局のところ、面白いフィーリングが生みだしたい
という狙いが大きかったので、それはよいことだなと思いました。
「2人の相性」の結果の文章を急遽、倍以上のバリエーションを書くことにしました。
さすがに忙しかった頃で、頭も回らなくなっていた時期で
アホでちょっと笑えて......だけど......リアリティ? みたいな文章を書くのは
とても、大変だったことを覚えています。
「いつもだったら、こういうの、得意分野なのに!」と叫んでいたことを思い出します。
長くなりましたが、このへんで。
そんな思いと、狙いで、2人用ゲームを企画し、設計し、開発していました。
なにかを感じてくださったら、嬉しく思います。
次回はついに最終回。
第四回、「仲間との開発」について、書きたいと思います。
旧友と会う。
旧友と書くと、昔「の」友達みたいだが
いまも仲よくやっている。
いや、いまからも仲良くやろうと思い、会った。
彼とは5年ぶりとなるからだ。
ずいぶん、間が空いてしまった。
彼と初めて会ったのは、いまから20年くらい前。
20年前の話をして、笑ったり、驚いたりした。
ふと思う。
20年前に知り合っていて、いまも会うような
友人は、いったい何人いるのだろう。
子どもの頃、家が近所だったとか
学校が同じだったとか、そういう関係ではなく。
その頃、僕は雑誌で連載のページを持っていて
取材で会いに行ったのが、そのきっかけだった。
まだ、開発会社の頃。
まだ、学校の講師もやっていた頃だ。
まだ、中目黒にオフィスがあって。
だけど、住んでいたのは恵比寿だった。
20年というのはさすがに長い。
思い出すときの、その感覚が、かなり遠くを見ている気がする。
互いに、その頃があり、その後があり、いまがある。
変わらないところもあれば、変わったところもある。
最後に、彼と会った5年前は、彼には子どもがいなかった。
「子ども持ちなよー」と言った。
「いや、どうだろうー」など言っていた。
それが、いまは、もう3歳になる男の子がいるという。
何故か、ものすごく嬉しい気持ちが溢れる。
少なくとも、20年前に、互いが子どもの話を
20年後に、するとは思ってもいなかった。
人に歴史あり、とは言うが
人と人にも歴史はあるものだ、と思い、別れた。
こんどは、来週か再来週に会おう、と言って。
上のYouTube。
たまたま、海外のリンクで見つけた映像。
(こちらまで楽しくなるので、ぜひ見てほしい)
『きみとぼくと立体。』を思い切り楽しくプレイしている。
(この映像にある英題は、正式なものではなく、彼が付けたもの)
その姿が、あまりにも楽しそうで、いいやつそうで。
なんだか、嬉しくなって、メールを送った。
YouTubeのメッセージサービスを使うのは生まれて初めてだ。
しばらくすると返事が返ってきた。
アメリカに住んでいて、日本のwiiを持っていて
『きみとぼくと立体。』を楽しんでくれているそう。
近々、全ステージをクリアするぞ、と書いてあった。
音楽も良いと書いてあった。
僕が作曲しているとも知らないだろうに。嬉しいことだ。
友人が1人増えた。
いや、まだ友人ではなく、ただの知人だ。
友人の候補。仲良くなれるといいなと思う。
このYouTubeでしか見たことない彼は、これが初めての出会いだ。
初めて出会うのが、YouTubeで。
初めてのコミュニケーションがメール。
20年経つと、出会いはずいぶん変わるものだ。
彼とも、20年後、このときを思い出して、笑ったりするのだろうか。
桜が散ってしまうのは
少し悲しいことだが
街には、「桜の川」が現れる。
桜の川は、やがて街に溢れ
角と角を繋ぎ、交差点で合流して
まるで、街の道路を縁取るように
まるで、街を装飾するように、拡がっていく。
いつもは、なんてことのない、道路の縁が
いつもは、なんにも気にしない、建物との境界が
幾千もの、桜の花で埋め尽くされる。
頭上で、咲き乱れる桜も美しいが
足下で、またもういちど咲いている
桜の川も美しい。
さて、「『きみとぼくと立体。』の設計」の、第二回です。
今回は、『きみとぼくと立体。』の「サウンド」について、書きたいと思います。
サウンドの設計のお話です。
僕は、いつもサウンドには拘っていて
2作に1作は、自分で作曲、編曲もしたりするのですが
(今作はサウンドの組み込み以外は、効果音まで作っております)
いつもいつもできなかったことがありまして
『きみとぼくと立体。』では、初めてそこにチャレンジしてみました。
それは、「プレイヤーが創り上げるサウンド」です。
昔の家庭用ゲームでは、拘っていたと言っても
曲や、サウンドデザインなど、「音」そのものを拘っていただけでした。
(自分が作曲するしないに関わらず)
ゲームというインタラクティブメディアにおける
サウンドデザインということに、初めてここまで真剣に挑戦した作品です。
1つは、ゲームの展開に合わせた、サウンドデザインです。
このゲームでも、通常のゲームと同じように、BGMというものがあります。
BGMというのは、感情を左右するために存在します。
それは映画でも同じなわけですが。
画面から伝わる表現以上に、嬉しい気持ちにさせたり
悲しい気持ちにさせたり、焦らせたり、ほっとさせてみたり。
映画であれば、どのシーンにこの曲を、というのが
ぴったり当てられるのでよいのですが、ゲームではそれができません。
どうなるか、というのが、決まっているわけではないですから。
もちろん、通常のゲームでも、残り時間が少なくなったら曲が変わったり
昔のゲームでも、無敵状態になったら曲が変わるなどありますが
曲が「変わる」というのではなく、展開するように考えました。
曲が変わる、という効果は、ある意味、効果音のように思えます。
しかし、このゲームでは、そこまでの明確な伝え方をしたくなかったのです。
「いまピンチですよー!」とか「このままだとヤバいですよー!」とか。
なぜなら、そうしてしまうと、明確な展開のゲームになってしまうからです。
サウンドというものは恐ろしいものです。
そこまで強くプレイヤーにアテンションしてしまいます。
このゲームでは、全体を、そういったカチっと明確なものにしたくなかった。
もっと自然で、アナログ感覚のある、ゲーミングにしたかったのです。
まず、ゲームがスタートすると、画面に、舞台となる、キューブが現れます。
あまり気付かないかもしれませんが、その時点で、BGMはスタートしています。
ノイズのような音が既にリズムを取っているのです。
そこに、プレイヤーが初めてキャラクターである、ニンゲを投げ入れると
最初から鳴っているリズムに合わせて、曲が展開します。
プレイヤーが失敗して、キューブ上のニンゲがいなくなると
当然のように、またリズムだけになります。
(このシーンとした感じは、かなり大きな効果になっていると思います)
同様に、ゲームが進行、展開して
舞台であるキューブが、ある程度以上に傾いてしまったり
残り時間が少なくなったりすると、それぞれに対応したトラック(音楽)が
その上に被さっていきます。
決して、曲全体が変わったり、異なるリズムで鳴ったりはせずに。
そのようにして、ベースとなるリズムのトラックに
ゲームの展開に応じて、トラックが足されたり、引かれたりして
ゲーム全体のBGMを作り上げています。
はっきりと「曲が変わる」、というような感じではありませんので
プレイヤーの心理に影響するようなものです。
僕の狙いは、「気付かず」に「感じて」もらえれば、というものでした。
明確に認識できなくても、プレイに影響してくれればということです。
そして、まだいくつかあるのですが、もう1つ。
実は、このゲーム、BGMと効果音がシンクロしているんです。
(シンクロしてしまったらおかしい効果音は除いて)
ちょっとした工夫で、BGMの持っているリズムと
効果音が、ずれたタイミングで鳴らないようにしています。
ですから、ゲームをしていない人が横で聞いていたら
パーカッションのように、或いは、BGMの持つエフェクトのように
聞こえるのではないかと思います。
そこに拘って設計したおかげで、「気持ちいい」ものにサウンド全体がなりました。
プレイしていただけた人は、「なんか音が気持ちいい」と
感じてくれたのではないかと思います。
また、シンクロと書きましたが、それはタイミングだけのことで
効果音の意図(危ないと思わせるとか、嬉しいと感じさせるとかなど)によって
BGMの持っている、曲のスケールと、効果音のスケールを合わせたり、ずらしたり
また、メインで使っている周波数帯域をそれぞれ分けて表現しています。
(それで、メインのBGMは、あんな感じのサウンド構成なんです。
効果音用に、空けている部分がある、といいますか)
と、ここまで書きましたが、こちらも前回の「感覚」と同様
気付いていただけなくてもよいものです。
感じてもらえれば。という設計です。
ですが、サウンドが好きな方や、サウンドをやられている方は
このあたりの設計意図を知っていただいた上で、プレイしていただければ
「なるほどそういうことか」と感じてくれるのではないかと思います。
次回は、第三回、「2人プレイ〜協力と対戦」について、書きたいと思います。
『きみとぼくと立体。』の楽曲が、本日、iTunesでリリースです!
シングルで2曲。
僕がすごく好きなタイトルの曲、「立体の上で」と
メインの選択できるBGMから1曲、「ぼくと境界」です。
ゲームでは、上記のような、展開させるサウンド、ということもあり
すべて、曲をただ流しているわけではなく、ストリーミングではなく
Wiiの本体でプログラマブルに鳴らしているわけですが
こちらは......原曲とでもいえばよいのかな。より楽曲として仕上がっております。
ゲームでは、ゆっくり聴いている余裕はないでしょうし
ほとんど曲の前半で次、となってしまうため
しっかりと楽曲のみを楽しむことは、できませんが
『きみとぼくと立体。』をプレイするなり、ウェブで見るなりして
「サウンドがいいなあ」と思っていただいた方は、ぜひ聴いてみてください。
iTunesを開いて、iTunes Storeへ行き、右上の「iTunes Store を検索」で
「きみとぼくと立体」或いは「Kenji Eno」を検索していただくか
下をクリックしていただければ、iTunesのページが開きます。
<<iTunes Storeの『きみとぼくと立体。』のページにジャンプします>>
試聴もできます。
これで、『きみとぼくと立体。』の世界を連れ出すことができます。
楽しんでください!
家族で花見、というか散歩。
目黑川を歩く。
目黒川は花見の名所であるが
昨日に集中したのか、あまり人が多くなかった。
帰りに代官山に寄る。
カミさんと長男が、雑貨屋に入っている間
僕は、バギーに乗った次男と、外でひとやすみ。
思えば。
近くにある店も、サンドイッチ屋も
初めて来たのは、20年くらい前だ。
ずっとここにあるわけか。
ずっと、ここで店をやっているわけか。
最初に来た頃は、まだ結婚もしていなかった。
それから、結婚をして、カミさんと来るようになり。
それから、子どもが生まれ、長男と来るようになり。
さらに子どもが生まれて、次男のバギーを押している。
1人が、2人になって、3人になって、4人になった。
作曲をするように、或いは、なにかの開発をするように
或いは、絵を描くように、料理を作るように
いまある家族の画、というものを思い描いて
今日があるわけではない。
結果、いまの家族の姿がある。
家族ってなんだろう。
そんなことを思って、煉瓦に腰掛けて
バギーに乗った次男と視線を合わせ、無言で問いかける。
すると、店を出たカミさんがやってきて
あっちの、もう1軒、見ていいか? と尋ねてくる。
その後、恵比寿まで歩いて戻る。
やることが、多く残っているので、僕だけ、オフィスに戻る。
次男はバギーで、すやすやと眠っていた。
どこか、観光もなにもするところのないところへ
家族全員で行きたいなあと思う。
家族ってなんだろう? と、ゆっくり感じる時間がほしい。
家族ってなんだろう。
その答えは、言語化できるものではないからだ。
「きみとぼくと感想。」第二回です。
『きみとぼくと立体。』について、blogに書かれた感想を
基本的には、勝手に探して、勝手にリンク&紹介させていただいております。
「書いたよ!」と連絡をくださった方もいらっしゃいました。ありがとう。
Google blog検索と、Yahoo blog検索と、Ask.jp blog検索と、はてななどなどで
がんばって探したのですが、発見できていないblogも多いかと思います。
こぼしてしまった方々、ごめんなさい。
前回同様、「プレイしていただいた感想」に限って、取り上げさせていただきました。
一言「面白い!」などではなく、ある程度のボリュームがあるものを取り上げました。
mixiなどの会員制サイトではなく、誰でも見ることができるものに限りました。
あたりまえですが、「書いていただいた内容」に関わらず
探すことができたblogは、すべて取り上げさせていただきました。
今回、取り上げさせていただいたのは、21のブログ。
前回、10のブログがありましたので、合計31のブログとなります。
サンプル数(なんとなく失礼な言い方ですね)としては
それなりの数のblogを、集めることができたかと、思いますので
購入で悩まれているかたは、ぜひ、参考にしてください。
僕もすべて読ませていただきましたが
多くのかたから、かなり高い評価をいただいているようで、嬉しく思います。
とはいえ、ゲームというのは、「向き、不向き」がございますし
どんなに高い評価をいただいているゲームでも、「合わない」ということはあります。
そのために、この企画を実施しました。
読んでいただいて、「これなら自分に合うかも!」と思われたら
ぜひ、プレイしてみてください。
メモっているうちに、最初のほう、ぐちゃぐちゃになってしまったのですが(-:
だいたい、見つけることができた順番に掲載されています。
みなさん、ほんとうに、楽しんでくれて、そして感想を書いてくださってありがとう!
それではどうぞ!!
「WUAH CREATIVE SAMURAI BLOG −ワー クリエイター ブログ−」さん
ありがとうございました。
すでにチケットが発売されている、次回トークライブ
『ヨシナガと飯野賢治の「気になること。」3』、ですが
なんと!
発売後、たった数日にして、チケットの残りが僅かになったそうです!!
いつの間にか人気イベントになったようで、浮かれておりますが
毎度、ソールドアウトになっておりますので、「ぜひ!」というかたはお早めに。
今回は、かなりチケットが無くなるペースが早いようです。
トークライブの詳細は、下をクリックしてください。
<<『ヨシナガと飯野賢治の「気になること。」3』の記事にジャンプします>>
お早めに!
そして
お楽しみに!
『きみとぼくと立体。』、評判はよいようで、ほっ。
ぜひ、WIIウェアでダウンロードして遊んでください。
さて。
この作品は、あまり内容を語りすぎてしまいますと
プレイしてもらったときの印象に、よくも悪くも影響してしまう作品ですので
あまりゲーム内容は語らないように考えています。
とはいえ、あまり語らないと、本気モードで作った作品じゃないと
思われてもよろしくないですので、ここから四回に渡って
この作品ならではの、「設計」について語りたいと思います。
買ってプレイしていただいた方には、より「なるほど」と思える内容ですので
後で買ってプレイしていただいたときは、また読んでいただければ、楽しめると思います。
まず、第一回。
このゲームで表現したかった「感覚」について。
語れば長いのですが、その「感覚」設計のうち、1つを。
プレイしていただいた方は、お気づきかもしれませんが
このゲームの変わっているところは、スクリーン(TV)の中を触れないところです。
(そこの角度に気付いた方は、そうとうな目をお持ちかと思いますが)
通常のゲームというものは、例えばキャラクターだったり
或いは、その舞台だったり、或いは、どんなものでも
スクリーンの中のものを動かします。
言い換えれば、プレイヤーがスクリーンの中の「なにか」になるのです。
もちろん、そういうゲームばかりではございませんが
大半のゲームが、そう企画されています。
主人公のキャラクターを操作したり、車や戦闘機を操作したり。
或いは、世界を操作してみたり。
僕の過去のゲームも、ぜんぶ、そのうちのどれか、です。
しかし、『きみとぼくと立体。』では
プレイヤーは、キャラクターである「ニンゲ」をリモコンに生んで(画面外の動作)
場所を決めて、それを投げ込む(まだ画面外)、というだけがプレイヤーの操作です。
リモコンというコントローラーのおかげもあって
プレイヤーは外側でプレイしている感覚になります。
ワイヤレスで動作を感知するリモコンでなければ、成り立たない感覚だと思います。
ニンゲというキャラクターは、スクリーンの中に投げ込まれてからは
プレイヤーはもう動かすことはできず、勝手に動きまわります。
舞台となるキューブが傾いて、慌てたり、倒れたり。
倒れたり、落ちそうになっている仲間を助けたり。
助けに行くことで、さらに傾いてしまったり。。。アホ可愛いわけですが。
とにかく、「ニンゲを投げ込んだら終わり」、なのです。
舞台であるキューブも、動かすことはできません。
だけど、プレイヤーは、キューブの状態、傾きのバランスを取るため
新たにニンゲを投げ入れます。投げ入れ続けます。
或いは、困っているニンゲを助けようと、ニンゲを投げ入れます。
投げているのは、プレイヤーですから
なんといいますか、ただ投げただけ、とはいえ、独特の責任感が生まれます。
映像や、スクリーンセーバーのように、キューブの上で困っているニンゲたちを
ただ見るだけ、というものと違って、インタラクティブなゲームですし
投げ込んだのは自分ですから、微妙な愛着が生まれます。責任感も生まれます。
ですから、自分が投げ込んだ場所やタイミングが悪かったり
或いは、なにも悪くないにしても、ニンゲをなんとかしようと思います。
なんとかするのが、ゲームの目的=クリア条件でもあるわけですが
「クリアしなければならないので、なんとかする」、ではなくて
独特の感情を持って、「なんとかしたい」と思っていただけるように設計しています。
ですので、投げたキャラクターが、倒れたり滑ったり
キューブから落ちたりすると、「ありゃりゃー」という気持ちが生まれます。
クリア時にバランスを崩していて、キューブが回転するタイミングで
落ちてしまうキャラクターにまで、「申しわけない」という気持ちが芽生えます。
余談ですが、キャラクターをもっと可愛いものにすれば
それだけで、なんとかしてあげなきゃ、と思ったりもできるのですが
そうしてしまうと、そちらが強くなりすぎてしまうため
あのような、ワリとクールで無表情なキャラクターにしました。
(それでも、最初に作っていたキャラクターからずいぶん表現豊かになりました)
話が少しずれましたが
そんな設計もあって、スクリーンの中に触れない、というゲームが成り立っています。
おかげで、いままでにプレイしたことのない新しい感覚が生まれました。
そして、その新しい感覚が、前面に出ないように、全体を企画、設計してあります。
そうしてしまうと、そこばかりが「ウリ」になってしまいますので。
(それがウリとなるようなものでもありませんし)
ほんと、たったちょっとの「見せ方」の違い、だけなんですけれど。
ちょっと後ろに引っ込めました。少し大人になったんですかね。
このへん、「なるほど」と理解していただけると、ハッピーなのですが。
「スクリーンの中は触れない」、という企画設計の上
ニンゲというキャラクターたちを、AIで自由に状況判断させて動かしたことによって
カチっとし過ぎない、「活きた」ゲームとなりました。
なるべく、単なるパズルゲームにはしたくなかったのです。
新しい感覚、を生み出したかった。
投げるのをニンゲという生物ではなく、ピタっと止まって動かない
コマのようにしてしまえば、完全に、「どこにどう投げる?」というパズルゲームになります。
或いは、投げた後も、全員に指示を出したり、誰かが集合をかけたりすれば
(実は当初はそういう企画もありました)
もうちょっと「やってる感」が、高いゲームになったかもしれません。
が、しかし、それによって、表現したかった「新しい感覚」は崩れてしまいます。
このゲームは、その「プレイヤーは画面の状況を判断して、キャラクターを投げ入れるだけ」
という企画設計が、プレイ後の好みの評価に大きく左右する作品だと思います。
そこが、好きになってくれる人は、ゲーム自体を気に入ってくれるでしょうし
言い換えれば、そういった新しい感覚も、ゲームの1つの価値、であると感じてくれる人は
面白いなあと楽しんでくれるでしょうし
残念ながら、その感覚が好みでないという人もいると思います。
ぜひ、そんな新しい感覚を、という方はプレイしていただきたい。
興味を持っていただけたら、ぜひ味わってみてください。
ま、楽しんでいただければ、そんなことどうでもよいとも言えるわけですが。(-:
任天堂さんのホームページで、『きみとぼくと立体。』の
紹介映像が2本、公開されましたので、下にリンクを貼っておきます。
未見の方は、ぜひ、チェックしてください。
<<『きみとぼくと立体。』紹介映像その1 「『きみとぼくと立体。』とは?」>>
<<『きみとぼくと立体。』紹介映像その2 「『きみとぼくと立体。』の世界」>>
次回は、第二回、「サウンド」について、書きたいと思います。
春なのに、まだ寒いですね。
昨日、乗ったタクシーの運転手さんが
絶対に「YES」と言わない、逆イエスマンの人でした。
僕が「結構、雨降ってますね」と言うと
「いやぁ、もっと先のほうは、どしゃ降りでしたよ......」
「でも、思ったより雨、強いですよね」と言うと
「10分くらい前は、もっと降ってましたよ......」
「天気予報で、ここまで雨、降るって、言ってましたっけ?」と言うと
「言ってましたよ......」
もういいや、どうやら友達にはなれなさそうだ、と
がっくりして、タクシーを降りたら
傘、持ってなかった上に、どしゃぶりになりました......。
さて、『きみとぼくと立体。』ですが
任天堂さんのオンラインメディア
「ニンテンドーオンラインマガジン」にインタビューが掲載されました。
このゲームを、といいますか、Wiiでソフトを作るきっかけとなった
自作の「紙リモコン」の写真も掲載されています。
僕の写真が、「このコハダ、ちょっと塩きつくないっすか?」
みたいな顔になっておりますが......
自分で言うのもなんですが、面白いインタビューになっておりますので
下をクリックして、ぜひ、読んでみてくださいませ。
<<ニンテンドーオンラインマガジンのインタビューへジャンプします>>
「面白そうだな」と思ったら、ぜひ買ってプレイしてみてください。(-:
個人的には、インタビューの最後のほう
> 今は(『スーパーマリオブラザーズ』の)土管から出てきた気持ちです。
> 大きくなったり小さくなったりしながら進んでいきます。
>「土管の下にはコインがいっぱいある」と言ってまた潜るかもしれませんけどね。(笑)。
という部分が、よく掲載していただけたなあと、驚いています。
思ったより、ずいぶん、オープンな会社ですな。(-:
また、「ファミ通.com」さんと、「GAME Watch」さんにも
インタビュー記事が掲載されています。
両方とも、発表直後に、サンフランシスコでインタビューしたものです。
顔が、やけに疲れた感じになっているのは、そのためです。(-:
そちらもぜひ、お読みになってください。
<<GAME Watchさんのインタビューにジャンプします>>
前々回、『きみとぼくと感想。』第一回として
プレイしていただいた、みなさんが書いてくださった感想を
まとめて掲載させていただきましたが
あれからまた、ありがたいことに、いくつもレビューが増えています。
『きみとぼくと感想。』第二回ということで
次か、その次のblogくらいで、また、ご紹介させていただきますので
プレイしていただいたかたは、ぜひ、blogで感想を!
変わらず、勝手に検索して、勝手に載せさせていただこうと思っておりますが
もし、「書いたよ!」という方がいらっしゃいましたら
右のアドレスまで、ご連絡いただけると助かります......。
......この時点で、1つも「書いたよ!」という連絡がないのはヒミツです。(-:
昨晩は、今度デビューするバンドの決起集会だった。
ピアノとシンセサイザーが僕。
あとは写真のメンバーたち。
ギター・バイオリン:SUGIZO (前列中央)
スティールギター :高田 連 (前列左)
ドラム :弘石 雅和 (前列右)
ベース ;吉村 栄一 (後列左)
シンセサイザー :星 憲一朗 (後列中央)
ヴォーカル ;奥 賀代子 (後列右)
決起集会とはいえ、もうすでにレコーディングは終了。
これからの、国内リリースに向けての、決起集会だった。
サウンドは、ファンクエレクトロニカ。
すでに、サンプル制作されたシングルが
ベルギーのレーベルからテスト販売されているが、反応は上々。
小規模だが、秋からのヨーロッパツアーも決まった。
日本でも幾つかのフェスから申し込みが。
メルトダウンのジャパンが、いまのところの有力候補。
昨晩の集会でも大きな議題となったが
最大の問題は、メンバーが7人もいるため、ギャラの取り合いだ。
しかし、昨晩の議論の結果
1人1曲ずつ作曲をし、1曲ずつ作詞をすることで決定。
ボーカル印税など含め、すべてを全員で等分することになった。
アルバム1枚出して解散、とならないように
全員でアツくキツくハグして、別れた。
飲みすぎた。
バンドの名前は「FOOL OF THE APRIL」。(-:
深い意味はない。
4月にデビューすることを記念しただけだ。
「FOOL OF THE APRIL」、よろしく!
関係者の混乱を招くとよくないため
一応、もういちど言いますが、「FOOL OF THE APRIL」ですから。