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October 17, 2007


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automatic

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子どもの頃から、気にしていることがある。
気にかけているというか、たまに注意していることがある。

それは、どのくらいオートマティックになってしまっているか?


例えば、喉が渇いて、冷蔵庫に行って
水でも、お茶でも、ペリエでも、ゴクっと飲もうとする。

そのとき、冷蔵庫がある場所まで直線ではないとして
いちいち、「はいここで右に曲がって」とか「振り向いて」とか
そういうことを、自分に命令して動いているわけではない。

もっといえば、「はい右足、はい左足」などと
いちいち考えて、歩いているわけではないだろう。

そういうことはいい。
そういうことは、そんなもんでいい。


だけど、「意識的に」、判断して、行動したり
なにかを決断したり、なにかを喋ったりでもいいんだけど
そのくらい「意識したこと」って、どのくらいあっただろう。


例えば、この1日とか、この数時間で
「自分でしっかり考えて行動しました」というのは
どのくらいあっただろう。


オートマティックに、生きちゃってはいないだろうか。


部屋の呼び鈴や、インターフォンが鳴ったとする。
或いは、ケータイ電話が鳴ったとする。

「は〜い」とか言って、立ち上がり、ドアへ向かう。
ケータイ電話を手にとって、着信の表示を見たりする。

それって、あんまり判断していない。意識していない。

「呼び鈴が鳴ったから」→「立ち上がってドアへ向かった」
「ケータイが鳴ったから」→「ケータイ電話を手に取った」

もしかしたら、そんなことの繰り返しで生きていないだろうか。

なにかがあったから、こうする。
なにかがあったから、こうした。

お腹がすいたから。
家を出る時間になったから。
テレビが始まったから。
友達が呼んだから。
眠くなったから。


きっかけがあって行動、そしてオートマティック。


まだ小さい頃は、「なにがあったから、こうするべき」という
経験が少ないから、そんなにオートマティックではない。

そもそも、「なになにに、なったから」みたいな
決まったパターンに入らないとならない、きっかけも少ない。

ぜんぜん、なにも関係なく
「家の外に出てみよう」とか
「おもちゃ箱を開けてみよう」とか
「ソファの下を覗いてみよう」とか「もぐってみよう」とか。


そんな小さかった頃から
いろんな経験を積んでいったり
役割や責任とか、背負うものが生まれたり
だんだんと、オートマティック時間が長くなってしまう。

1日の中の、オートマティック時間の割合が多くなっていく。


駅から自転車で家に帰るとする。
あまり意識しなくても、特に判断しなくても
何度も曲がり角を曲がったり、ブレーキングしたり
足で上手にスピードを調整してペダルを漕いでいる。
いつの間にか、家に着いている。

家に着いているどころか、ドアを開けて、靴を脱いで
コップに水を入れて飲んで、リモコンでテレビをONにして。

オートマティックになっていないだろうか。


それじゃ、まるで
なるべく考えたり、判断しなくてもいいように
今日まで、膨大な経験を積むために、生きてきたみたいじゃないか。

「生きている」といえる、時間が、短すぎるじゃないか。

注意が必要だ。
意識が必要だ。

しっかりと意識をしないと
意識をする間隔が、どんどんと、延びていき
しまいには、意識しないままになってしまうのではないか。

意識をしないまま、ずーっと。


過去の蓄積された経験だけを頼りに
オートマティックに生きてしまってはいけない。
成長したからこそ、未来のために、意識して、判断して
生きていくべきだ。


気付かないまま、ふたたび、眠りに入ってしまわないように
しっかりと目覚めよう。


Posted by eno at October 17, 2007 03:08 AM


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