御園座で、歌舞伎『盟三五大切』を見る。
素晴らしく面白かった。
まず、その話、脚本に驚く。たまげてしまった。
何の知識もあえて持たずに見たので
最初は、ずいぶんシンプルな話だなあと思って見ていた。
そりゃ、言葉も文化も常識も現在のものとは異なるんで
話のスジを追うのにそれなりに苦労はしたんだけど
骨格としては、シンプルな話だと思って見ていた。
やっぱり、こういう「手法」というものは進化していて
いくら名作といえど、昔の話は昔の話だなあと。
古い漫画とか、古い映画を見るような感覚に思えてしまった。
古い漫画とか、古い映画よりも、遙か昔の作品なわけで。
それが、そうでもないことに気付く。
自分なりに、話のスジが見えて、こういう展開だろ
と勝手に思っていたところに、いろいろとひっかかりを感じる。
おかしいなあと。
わざわざ、な伏線がいっぱい見えてくる。
「ん? これって、実は……、実は……という展開じゃないの?」
そう思えてから、途端にのめり込み度が増し、頭がフル回転する。
話のスジが見えたと思って、ラフに捉えていたことに後悔しながら
まるでミステリーを解くように、こういうことか?
こうなるか? と、展開を予想しながら、舞台にも集中。
めちゃくちゃ面白かった。
当時の脚本家、素晴らしい仕事しますね。ちょっとびっくりしました。
単に基本となる話が面白い。まずここがすごい。
そして、大衆エンターテインメントとしての仕事。
笑いあり、ホラーあり、バイオレンスあり、色香あり、哲学あり。
よくこれだけ自然に入れられるなあと思う、興奮要素。
その中で、なによりも目立つのがバイオレンス。
これは、江戸の当時は、度肝抜かれたことでしょう。
映像にしたら、いまだってR15指定か、へたすりゃ成人指定。
そして驚くのが、『インサイド忠臣蔵』みたいな要素も持っていること。
『アナザーストーリーオブ忠臣蔵』といいますか。仕事が凄すぎ。
ダースベイダーはどうして生まれたか? を楽しみながら見るような感覚も楽しめる。
またそれが、武士社会なんてさ的な、皮肉となって
当時の大衆を大変に満足させたと思われる。
さらにそこに、『四谷怪談』もちらちらと入ってくる。いやー仕事が細かいわ。
四谷怪談の後日談が、パロディ的なスパイスとして導入されている。
参った。凄すぎる。楽しめる要素が多すぎる。
とにかく話を書いた人の仕事がすごいや。
これ、現代劇のヤクザ映画にしたら、面白いんじゃないかなあ、とも思った。
話に驚いたので、そればかりを書いてしまったが
もちろん、演ずる役者さん達も素晴らしかった。
僕が唸ったのは、演じていないときの演技。
あたり前だが、舞台の芝居は、映画とは違って
フォーカスされている人以外も舞台にいる。
映画だったら、フレームには入っていない人もそこにいる。
そこで、どんな表情をするか、どんな姿勢を取るか、というのが
舞台芝居では、本当に大切なことなんだと、改めて感じさせられた。
というのは、菊之助演じる、女形、小万の演技。
小万という女は悪いやつなんだけど、いろいろ企んで悪いやつなのか
あまりなにも考えてなくて流されてる悪いやつなのか
どちらか明確にしておく必要があるし
どちらにどのくらい振るかによって、スジが少し違ってくるくらいのものだが
「考えが薄いために流されているだけ」、という演技がよかった。
他の登場人物が演技をしているときの表情。姿勢。
それによって、この女は、ああ流されてるだけなんだなあと
でも、その流されているのも悪だよなあと強く感じるようになる。
アイデンティティがない、或いは少ない、という演技は凄いと思った。
その流され女が、まるで眠りから目覚めるようなシーンが強烈。
自らの子の命を目の前にして、やっとそこで目覚める。
その変わり方が素晴らしかった。
このために、流され女に振り切っていたのかと思えるくらい。
そのおかげで、コントラストが強烈になり、最も残忍で悲しいシーンが際立った。
あと、三津五郎演じる、源五兵衛が雨の中、花道を去るシーン。
この演技というか、振る舞いというか、心情の表現が凄かったなあ。
なにを言うとか、どんなポーズとか動きとか、そういうのとは関係のない世界。
こんな演技があるのか、と本当に驚いた。
彼の心情がバイブレーションになって、客席に伝わってくるんだもん。
生で見る価値というのを心から感じさせてくれた。
こういう芝居ができる人たちがいるから、劇場にかけつける人がいるわけだ。
という、『盟三五大切』は、御園座で24日まで。
こんなにも面白いとは思わなかった。失礼。