ホタルを見に行った。
といっても、恵比寿。
渋谷区ふれあい植物センター。
いまのオフィスの前の場所から徒歩数分のところだというのに
というか、恵比寿に初めて引っ越したときからもう20年近く経つというのに
渋谷区に植物園があるとは知らなかった。
行ったのは最終日で、残念なことに昨日までなのだが
ホタル鑑賞会「ホタルの夕べ」という催し物があるという情報をいただき
家族で、ホタルを見にいった。
噴霧器からシュワシュワと霧が出てくるガーデンで
小さなホタルが、足下に、目の前に、頭の上に、飛んでいた。
たくさんの植物が生きている匂いと
噴霧器による、ものすごい湿度
そして、自律したLEDが飛んでいるかのようなホタルの光で
短い時間ではあったが、東京都渋谷区にいるとは思えない世界の空気を浴びた。
もともとはカミさんからの提案で
1歳になった下の子が、ずっとずっと泣いて、泣いて、泣きまくって
「もうホタルでも見て『わぁ〜!』とか言わんと、やってられへん」
という、実に幻想的かつ具体的なリクエストによって、実行されたのだが
僕も息子も、満足いく、気分転換となった。
下の子も、目の前を飛ぶ緑の光を、ずっと追っていた。
しかし、1歳くらいの頃の子育ても大変だ。
うまく意思疎通が図れない。お互いに。
なんで、泣いているのか、わからない。母親は。
なんで、困っているのか、わからない。赤ちゃんは。
どうにかならないものだろうかと思い
よく考えれば、僕がそこにうまく介入できていないところに原因の1つがある
と、いまになって反省する。
もうちょっと、カミさんの、いまの人生を、楽しく、元気にさせなければならない。
気分転換をホタルに求めたのは、大きなサインだ。
ホタルの光はサインだった。
ホタルの光に、僕の存在が負けている場合ではない。
ホタルの光以上に、晴れやかな気分にさせるのが、僕のやるべきことなのだ。
ホタルのクソ小さい光の集まりなんて、そんなものに頼られて、どうするんだ?
打倒、ホタル。
穏やかな時間が訪れると
子どもの頃を思い出す。
子どもの頃の
特になにをしていた、ということではなくて
子どもの頃、持っていた時間。
子どもの頃、身に纏っていた時間。
ちょっとした、そのとき流れていた
空気のようなものに溶け込んで
すっと、世界の流れから取り残されたような瞬間の持続。
男も女も、変わるところもあれば
変わらないところもあると思うけど
子どもの頃のときの時間とか空気。
その切り取った思い出、みたいなものは
ずいぶんと、違うんじゃないかなあと、よく思う。
流れていく雲が、流れて遠くへ行ってしまうまで
ずっと、見続けていたのは、最後、いつだっただろう。
足が痛くて、道で止まって、ちょっと休んで
ぽつんと、空を見上げて、そんなことを思った。
昨日になったばかりの深夜0時過ぎ
足を捻ったら、「ブチブチ」と音が聞こえた。
すぐに激痛。
ちょうど、作曲の仕事をしていたので
まぁ、なんとかなるだろう、なんて
座って打ち込みをしていたんだけど、立ってみたら、かなり激痛。
スネアドラムみたいなサウンドが響いて
その後、ハウスみたいなバスドラのリズムを繰り返す。
このまま、ドラムンベースになったらどうしようと心配になる。
朝、タクシーで帰ろうとしても、道路が遠い。
オフィスの目の前の道は、1日待ってもタクシーが来ないような小さい道なので
ちょっとだけの距離にある、道路へ行こうとするも、道路が遠い。
帰って激痛。
仕事を休んで、足を休めると、痛みはひくが
歩けばまた激痛。
激痛に激痛が重なると、あまりにも刺激的な信号が、脳にやってくるので
これはたまらんと、病院へ。
「肉離れ」とのこと。
サッカー選手でもないのに、肉離れというのは悲しいが
お医者さんに、痛み止めを出していただいて、夕方、夜、夜中と
時間が経つにつれ、痛みがなくなっていく。
痛みがなくなっていく、といっても
治っているわけではなく、単に痛み止めを重ねのみしているうちに
痛みに対して馬鹿になっているだけだ。
あれだけの激痛が、ちょっと痛いですね、困ったものですね、と
ずいぶんと楽になってしまうのだから、薬というのは、すごいものだ。
なるほど、「楽」に「草冠」で「薬」である。
そして、今日は出張日。
昨日の昼くらいは、こりゃ厳しいなあと思っていたのに
痛み止めのおかげで、「新幹線ホームって遠いから心配だね」
くらいに、思えてしまうのだからすごい。
とはいえ、それなりに大変。
いつもより、1時間くらい前に出発しようっと。
ジョーイに、さくらんぼを贈ってもらう。
仕事をきりの良いところで終えて、帰り
息子のテストで間違ったところを、一緒に復讐し、良い解法を教え
終わって、また、仕事に戻る。23時。
いつから、こんな、理想のパパ像、みたいな男になったのだろう。
気持ちが悪い。
息子の間違った問題を見てみると、計算間違いが多い。
ちょっとしたミスではあるが、それが多いと、大きなミスである。
問題を読む。
「えーと、ある学校では、女子のほうが男子より、10%生徒が多い。
女子の生徒が324人だったとき、全校生徒は……って
おい、お前、答えが、こんな人数になるわけないじゃん!
どんな学校だよ。地方都市か。
だいたい、女子が324人っていうんだから
だいたいで、『ほぅ、これくらい』、ってわかるじゃん」
例えば、この場合、女子が324人ってことは
全体で、ざっくり考えて、600人くらい、であることがわかる。
もし、ちゃんと計算した結果、答えが、その、『ほぅ、このくらい』の数から
ずいぶん、かけ離れているなら、それは計算ミスだ。
また、違う問題を読む。
答えを見る。
その問題の答えも計算ミスだ。
『ほぅ、これくらい』の数から、ずいぶんかけ離れている。
「ははあ。なるほど」と気付く。
あまり気にしていなかったが、自分の場合は、こういうとき
先に頭で、『ほぅ、これくらい』という
「ざっくり計算」をやっているようだ。
それで、ちゃんと計算してみて、かけ離れているなら
計算の立て方が間違っているか、単純に計算ミスである。
なるほど。
これは、息子に教えてあげるべきテクニックだ。
と、教えてやる。
この、『ほぅ、これくらい』方法は、重要ではないだろうか。
「そのとき、温度は何度でしょう?」=「答え:285℃」
みたいなアホな間違いもなくなるというものだ。
計算を信じてしまうと、こういうミスが起きる。
テストが終わってから、「見直し」する時間があればいいが、ないときも多い。
そもそも、すべての問題で、『ほぅ、これくらい』と
「ざっくり回答」を、先に出していれば、間違いはかなりなくなる。
「ざっくり回答」にかかる時間は、数秒だし。
大人にとっては、経験を重ねて、当たり前のことでも
子どもには、まだ、わからない、或いは、知らないやり方がある。
僕が、ちょっとした教育文化人だったら
これくらいのことで、新書を出してしまう勢いだ。
しかし、新書って、まとめたら10ページくらいになる内容の薄い本、多いよね。
雨の翌日は、空が美しい。
空気が澄んで、日差しが眩しい。
こんな日は、どこかに行きたいなあと思うが
果たして、どこに行きたいのだろうか。
例え、仕事が1日休めたとして。
ふと想う。
子どもにとっての、ディズニーランドみたいな場所って
僕らにとっては、存在しないじゃないか。
頭にぼうっと浮かべて、「行きたいなあ」みたいな場所。
いや、もちろん、沖縄に行きたいとか
ローマに行きたいとか、そういうのはあるんだけど。
もうちょっと近場で。
ちょっとした、テーマパーク的な、ワンダーランド的な。
お台場とか、ミッドタウンとかでは
少なくとも、僕は、「わぁ行きたいなあ」とは思えない。
もうちょっと非現実的な、日常を忘れてしまう
興奮する場所があっても、よいじゃないか。
ディズニーランドとかではなくて。
もっと、大人の感覚のままで。
ないね。
誰か作って。
大人がたまに、ぼうっと
「あそこにまた、行きたいなあ」と思う場所。
そういうところがあると、精神的にもよろしいよね。
誰か作って。
僕が作ればよいのか。
雨の中、埼玉スタジアム。
雨が降っていたということもあるだろうが、遠い。
帰りはスタジアムを出てからの導線も細く
寄り道をするようなところもなく
交通機関も少ないから、駅の入場規制などもあり、時間かかりまくり。
子どもたちと一緒に行ったので、出るまでに時間が
かかってしまったことも大きいと思うが、家に着いたのは、もう0時。
試合は、後半ロスタイムに、なんだかわからないうちに得点。
雨はずっと、ザザ降り。
僕が行く試合は、そこまでの雨は降らないことが多いので
ザザ降りの雨の中で見たのは、7年前のコンフェデレーションズカップで
中田がオーストラリア相手に、フリーキックを決めた横浜の試合以来。
あのとき、中田は初めてキャプテンマークを付けたのだった。
だけど、次の日、イタリアに戻ったんだよね。
懐かしい。
しかし、自分のサッカー熱は、少し、冷めているなあと感じる。
以前は、ジョホールバルに行くくらい好きだったのに。
いや、いまも好きなんだけど。
ワールドカップに初めて行ったときが、ピークだったのかもしれない。
そういえば、フランスも行った。
日韓開催で、あまりにも盛り上がって
チケットが取りづらくなり、気軽に試合に行けなくなって
会場から足が遠のいたあたりが原因なのかなあ。
9月の最終予選に向けて、もうちょっと盛り上がっていこうと
ビチョビチョのレインコートの中、冷めた身体で思ったのだった。
ところで、今回、なんとなく写真を16:9のワイドにしてみた。
いい感じだったら、これからそうしようと思う。
いまいちだったら、元に戻そうっと。
ロンドンの話を、ちょっと。
今回のライブ、僕はぎりぎりになって行くのを決めたため
チケットは、知人がキャンセルしたのを、回していただいたのだが
それ以前に、なんども、「行きたいなぁ」などと
イベントのウェブサイトの、チケット購入の、ページを見ていた。
それが、当たり前のようだが、見事で。
ページにアクセスすると、座席表が出てきて
空いている席は、色が付いており、そこをクリックしておさえる。まず。
その後、クレジットカードのディテールを入力したら
パスワードというか、IDが出てくるので、それを持って現地に行って
キオスク端末で入力して、チケットをゲット、というスタイル。
日本でも、東宝シネマなどの、映画館では同様のスタイルを取っているが
これ、なんで、コンサートでは、同じ手法でできないんだろう。
ものすごく簡単だし、座席が納得の上、購入できる。
ケータイやら、なにか携帯端末でも
非接触ICなり、2次元バーコードなりを使えば
チケットレスにもなる。
なんだか、そんな、本来、日本が得意とするようなことが
ロンドンという遠い地でのチケッティングで実現していて、なんともだった。
ロンドンのチケットを買うほうが、簡単で便利なんて。
ライブが終わって、帰り。
ヒースローの飛行場で、ブリティッシュ・エアウェイズのターミナルへ。
「あれっ?」と見ると、どうやら、成田のカウンターとは違う様子。
なにか様子が違うので、係員のおじさんに訊くと
「キオスク端末へ行ってね」という。
それがこの写真。
キオスク端末に行ったら簡単。
パスポートの1ページ目を、端末にサクっと入れたら、チケットが出てくる。
それを持って、パスポートコントロールのカウンターに行って、チェックしてもらい
そのまま、セキュリティを通って、指定されたゲートまで。
この間、わずか10分もない。
荷物がなかった、というのもあると思うんだけど、いくらなんでも早い。
「国際線」という感覚だったので、ちょっと驚いた。
ちなみに、預ける荷物がある人は、それ専用のカウンターが多く用意されているので
それにしても、そんなに時間がかからないと思う。
日本だと、というか、成田しか知らないけど
搭乗回数が多かったり、ビジネスやファーストクラスだったりすれば別だけど
アホみたいにカウンターで、列を作って待っていたりする。
いや、ビジネスクラスでも、待ったりする。
思えば、国内線は、数年前から、そういう簡単なスタイルに変わった。
なんでも、かんでも、機械化されるのは、とても嫌なことだけど
意味のない無駄な時間や、手間、ストレスはもったいない。
新しくできた、ターミナル5だけなのかもしれないけど
あまりにも、サクっと、国際線のやりとりが終わって、驚いた。
嬉しくも、時間があまったので、FORTNUM & MASONのお茶を買って
「WAGAMAMA(わがまま)」という名前の、アジアンレストランでゆっくり食事した。
ヨーロッパ人の多くが、焼きそばを食べている。
もぐもぐ、もぐもぐと。
あっちのテーブルも、こっちのテーブルも。
焼きそば、好きなんかね?
日本においでよ。
時間が経って落ち着いてきたので
Yellow Magic Orchestraの、ロンドン公演について書こうと思う。
今回の、Yellow Magic Orchestraのライブは
MELTDOWNという、SOUTH BANK FESTIVALの中の1演目。
毎年、異なるキュレーターによって、様々なアーティストが集められ
今年は、Massive Attackが、Yellow Magic Orchestraを招聘した。
会場はテムズ川沿いの、Royal Festival Hall。
水の近く、ということで、去年のパシフィコ横浜とある意味、雰囲気が似ている。
会場の前には、テムズ川を見下ろす、明るいオープンのBARがあり
一杯飲んでからライブへ、というスタイルがとても良い。
English Gardenが美味しかったが、僕の知ってるカクテル材料とはまったく違っていた。
会場に入って、AFTER SHOW PASSを受け取り、ウロウロすると物販を発見。
なんと、YMOのシャツが売っているではないか。
UK・ロンドンと、スペイン・ヒホンの日程も入っている。
僕は、あまりコレクター欲がないので、買わなかったが
しばらくした後、もういちど通ると、なんと、売り切れ。
横を見ると、ファンキーな英国人が、そのシャツを着て笑っている。
CDも売っており、販売員はいろいろ質問されて大変そうだった。
僕が、代わりに答えてあげようかと思った。
会場に入ると、ステージが近い。
前のほうの列だった人は、ちょっと残念だったのではないだろうか。
Rolandのシンセを発見して、驚くが、そういえば、前座がいたのだと納得。
開場時間から前座のスタートまで時間が少なかったので
わいわいしているうちに、ショウの前座、pivotのライブが始まる。
pivotの30分のライブが終わると、インターバル。
20分のインターバルの間に、7割入りだった客席は、ほぼ埋まっていた。
pivotのパフォーマンスは、すごく良かったのに勿体ない。
と思うが、20時にゃ来れねーよ、という人も多かったのだろう。
日本人は15%くらいだろうか。
10%ってことはないし、20%もいないかな、といった感じ。
ロンドンや周辺国に住む日本人も多いだろうから
もっと日本人率高いかと思っていたが、英国人率が高かった。
僕ら日本人からすれば、去年のHuman Audio Sponge公演もあるし
Yellow Magic Orchestra名義でも、京都でのLIVE EARTHがあったわけだが
ヨーロッパの彼らからすれば、28年ぶりのことだ。
28年というのは、もう具体的な長さではなく、ずっと昔のこと。
音楽関係の人も多いだろうし、メディアの人々もいるだろう。
3000の客席が、埋まってしまうのは当然のことだ。
特筆すべきは、年齢層の広さ。
メインは30代、40代だろうが、10代〜50代くらいまで幅広い。
女性率が高いのは、カップルで見に来る人が多いのだろう。
去年、パシフィコで聞いた、アンビエントのSEが静かに聞こえてくる。
暗転してからではなく、インターバル中に、鳥の声や虫の音が流れ
会場をゆっくりと包んでいく効果は大きかった。
やがて、サポートメンバー、そして、Yellow Magic Orchestraの3人の入場。
そして、HARUOMI HOSONO、YUKIHIRO TAKAHASHI、RYUICHI SAKAMOTOの
文字が、懐かしいオフィシャルの順序で、大きなスクリーンに映し出され
YELLOW MAGIC ORCHESTRA in MELTDOWN@ROYAL FESTIVAL HALLの文字。
大文字の「YELLOW MAGIC ORCHESTRA」に、圧倒される、僕と会場。
正直、こんなに反応良いのか、と驚いた。
拍手と歓声がすごい。大歓声。会場が独特の雰囲気になった。
テクノポップのLEGENDに対する敬意と、これからの演奏の期待だろう。
ライブは、以心電信からスタート。
その1曲目で
あぁ、これは、「いまのYellow Magic Orchestra」をみせるのだなと思った。
ライブ前、2つのパターンがあると思っていた。
そのどちらかであると。
1つは、往年の名曲を、数曲混ぜたセットリスト。
1つは、去年の日本からの流れの、いまのセットリスト。
前者であれば、Behind The Maskなどでスタートするであろうと。
しかし、違った。
Yellow Magic Orchestraは、いまも生きているのだ。
ファンとしては、前者を期待していたわけだが
1曲目で趣旨を理解し、Yellow Magic Orchestraのライブを楽しむことにした。
その後、SPORTS MEN、FLY ME TO THE RIVER、MARS、FLAKESと続き
そして、RIOT IN LAGOS。
ここ数年、すべてのRIOT IN LAGOSのライブを観ていると思うが
このロンドンでの、RIOT IN LAGOSが、最も素晴らしい演奏だった。
ギターが、Christian Fenneszだからだろうか。
会場のPAのせいか、あの気持ちよいバスドラの輪郭はくっきりとしていなかったが
これまた、ずいぶんファンタジーな、RIOT IN LAGOSだった。
終わると、会場からの反応がずいぶんヒートアップしているのを感じた。
会場も一体となって、それをライブと呼ぶならば
失礼ながら、RIOT IN LAGOSから、ライブがスタートしたようにも思える。
そして、ONGAKU、RESCUE、TURN TURNと続く。
ONGAKUの反応が良かったのは、LONDONにも熱狂的なファンがいるのだなと思う。
そういえば、あの昔のYMOシャツを着ている英国人もいた。
よく見ると、プリントが疎らだったので訊くと、自分で作ったと言っていた。すごい。
そして、TOKYO TOWN PAGES。
聴いたこともない新曲なのに、それがその曲であるとわかるのは
曲の持つ雰囲気と、自分がディープなファンであるという証拠だ。
さらに、THE CITY OF LIGHTと新曲が続く。
THE CITY OF LIGHTは、ライブ初演奏であるが、これがすごく良かった。
どういう趣味なのか、最初は理解できなかったが、会場が沸く。
純粋にパフォーマンスが良かったことの反応だろうかと思うが
ヨーロッパの人は、こういう曲、好きかもしれないと、理解する。
そして、SUPREME SECRET、WONDERFUL TO ME。
そういえば、もうちょっと手前から、ライブの後半は、幸宏さんはオンドラム。
幸宏さんがドラムに入ってから、会場はさらに盛り上がった。
正直、全曲、叩いてほしかったなあと思う。
ライブがスタートして、1曲目、オンドラムだったらもっと違ったように思う。
途中、叩かない曲があっても、1曲目からしばらくオンドラムであったらなあ。
次は、なんと、TIBETAN DANCE。
それは、まったく予想もしなかった。
これは深い。
とはいえ、歌詞があるわけではないので、セットリストを見なければ
「TIBETAN」というメッセージが伝わらないのではないだろうか、と思ったが
スクリーンには、ダライ・ラマのメッセージ。
やられた。参った。カッコいい。
これをいま、ロンドンで演奏するというのは深い。
28年前のライブより、カッコいいじゃないか、Yellow Magic Orchestra。
そして、その流れのまま、WAR & PEACE。
スクリーンには、「is war as old as gravity?」という文字が流れる。
「are there animals that like peace? are there animals that like war?」
メッセージは、そのまま英語で、会場にいる3000人に伝わる。
これは、確かに、いまのYellow Magic Orchestraだ。
War & Peaceは、Yellow Magic Orchestraの曲になった。
かつての、Riot in Lagosのように。
Yellow Magic Orchestraがいま、世界に飛び出す意義を感じる。
TIBETAN DANCEから、WAR & PEACEの流れ。
曲が終わると、大きな拍手が起こった。
いまのYellow Magic Orchestraが、ロンドンの聴衆に、その意義も含めて
受け入れられた瞬間ではなかっただろうか。
そして、RYDEEN 79/07。
さすがに知っている人も多いと思え、終わると、大歓声。
メンバーはステージを去り、その歓声のまま、アンコールを呼びかける。
ずいぶんと早く、メンバーがステージに戻り、CHRONOGRAPHを演奏する。
また去るメンバーに、さらに演奏を呼びかける会場。
2度目のアンコールはCUE。
なんと、坂本さんではなく、幸宏さんがドラム。
2曲のアンコールが終わり、ライブ終了とは誰もが思ってはいるが
拍手は、まったく鳴りやまない。
やがて、スタンディング・オベーション。
鳴りやまない歓声に答えるように、3人のメンバーが、笑顔でステージに戻る。
カーテンコールというのは意外だった。
Yellow Magic Orchestraのカーテンコール。
ライブが終了した。
すべてが終了し、周囲を見渡し、ここはロンドンなんだ、ということを改めて想う。
正直、観客の反応は、二分だったのではないだろうか。
最初に書いたように、往年の名曲を楽しみにしていたファンもいただろう。
しかし、これが正しかったように思える。
正しい、なんて、失礼な意見ではあるが、こうあるべきだった。
いまのYellow Magic Orchestraを見せることが、当然のことだった。
Yellow Magic Orchestraは、いまも生きているのだ。
いまのYellow Magic Orchestraを見せることに意味があった。
ただ、それには1つ条件がある。
Yellow Magic Orchestraは、これからも走り続けなければならない。
来年なのか、数年後なのか、わからないが
再び、海外でライブをやるべきだ。もちろん、日本でもやるべきだが。
海外でのライブを、何度か繰り返して、その時々のパフォーマンスをし
その時々のメッセージを残し、生き続けてこそ、この日の意味がある。
大昔、奇妙な人民服に身を包んだ日本人が
シンセサイザーという奇妙な楽器で、ロンドンで演奏した。
当時、強烈な印象を残した、パフォーマンスだっただろうが
それをいま、繰り返す意味は、どこにも存在しない。
Yellow Magic Orchestraは、最後まで一言も発すことなく、ライブを終了したが
強いメッセージと、いまのYellow Magic Orchestraの姿を、ロンドンの地に残した。
Yellow Magic Orchestraは生きている。
ロンドンより戻る。
忙しい中、仕事を1日休んでしまったが
日曜日の夜にライブを観て、火曜の昼前から仕事してるのがすごい。
ロンドンは遠いけど、そうでもないのだ。
そう。
Yellow Magic Orchestraのロンドン公演を観てきた。
直前まで、行く予定ではなかったが
ずいぶん、自分もカチンコチンの大人になってしまったのだなあと思い
心を子どもの頃に戻して、「わーい! 行こう! 行こう!」と
大はしゃぎして行ってきた。
このくらいが、自分らしいんだと思う。
最近、自分らしくなくなってきた。反省。
Yellow Magic Orchestraのロンドン公演は、実に28年ぶり。
Yellow Magic Orchestraのライブをロンドンで観るなんて
まさか、こんな日が来るとは思わなかった。
子どもの頃の自分に、教えてあげたい。
28年前の自分というのは、いまの息子と同じ歳だ。
息子は、こんな、僕のように
人生が変わってしまうようなものに、出会うことがあるのだろうか。
ロンドンまでライブを見に行くという父親を、どう思うのだろう。
終演後、坂本さんに会いに行くが、なかなか言葉が出なかった。
ずっと僕は、Yellow Magic Orchestraが変わらず好きで
ずっと僕は、Yellow Magic Orchestraを応援している。
ファンというのは、そういうものだ。
Yellow Magic Orchestraがいなかったら、僕の人生はどうなっていたんだろう。
28年の思いに比べたら、ロンドンなんて、飛行機でたったの12時間。
最初は、どんな計算をしていたのだろう。行くのが、当たり前じゃないか。
ロンドンへ行く。
いまからもう12時間もしないうちに、飛行機の中にいる。
ロンドンは、久しぶりだ。
ずいぶん、街の様子も変わっただろう。
いまは、もう景気もよいようだ。
あいわらず、空はどんよりしているだろうけど。
着いたら夕刻。
寝て起きて。寝て起きたら、日本へ帰る。
短っ。
忙しいなか、月曜日お休みいただくのが、申し訳ないが
火曜日の朝には戻ってくるというスケジュール。
ですので、少なくとも、火曜まで更新はありません。
以前、サンフランシスコへ行って、空港で打ち合わせして
そのまま戻ってくる、ということもあったが
ヨーロッパ大陸で、こんなに短いのは初めてだ。
行ってきます!
昨日は、夕焼けが美しかった。
夕方、わずか10分くらいだけど時間ができたので
オフィスの外に出て、夕焼けをずっと眺めていた。
子どもの頃、まだ小さい頃。
夕焼けが好きだった。
道ばたに落ちている、石ころの表情も好きだったし
風に吹かれる、葉っぱの音も好きだった。
しかし、そのような感覚を共有しようとしても
理解してくれても、賛同してくれる友達は少なく
あるとき、「こういう感覚は、しまっておくべきなんだ」と思った。
しまってからは、あまりそういうことに興味を示さなくなったし
感じることがあったとしても、すぐに捨て去ってしまっていた。
そんなことを、昨日、夕焼けを見て、久々に思い出した。
大人になってからは、気の合う友人が
1人、1人と、できてきて、そんな会話もたまにできるようになった。
いまでは、仲間たちと、そんな会話が普通にできている
ということ、そんな日常、仲間たちの存在を
もっとありがたく思うべきだなあと、昨日、改めて感じた。
iPhone 3Gの詳細が発表された。
驚いたのは、来月、7月11日に発売、とのこと。
もう1ヶ月で、購入、できるというのは驚いた。
もっと驚いているのは、ソフトバンクショップの人たちだろうけど。
さらに驚いたのは、その値段。
まだ日本国内の価格は未発表だが
少なくともアメリカでは、なんと199ドル!
これはすごい。いままでのiPhoneが399ドルだったんだから。
「一気に攻め」のサインですね、これ。
いまの最新機種、4万円とか6万円とかですよ。
これは、ものすごい勝負になるんじゃないかなあ。
さて、タイトルにあるように
昨日は、早い時間から、iPhoneの予約の話題が飛び交った。
「予約、もうできるってよ!」
「実際の販売は、フランチャイズじゃなくて、直営店でって噂!」
「実際、直営店で予約できたって!」
「表参道店でできるらしいよ!」
「表参道店で予約したってよ!」
「新東京タワーって、東京スカイツリーっていうらしいよ!」
この時点で15時くらい。
なんだか、わからないくらいのスピードで情報が入ってくる。
といっても、こっちはミーティング中だ。ずっと。
ずいぶん世の中は賑やかなようだが、こっちはミーティング中なのだ。
購入じゃなくて、単なる予約ですよ。
「どうやったら買える」じゃなくて、単なる予約の情報が飛び交ってる。
「どこで売ってる」じゃなくて、単なる予約の情報が飛び交ってる。
ていうか、みんな、iPhone予約に行ってるわけ?
ほんと?
また、しばらくすると。
「宮益坂店でも予約だって!」
「新宿東口中央通り店で予約してるって!」
「直営店じゃないとこでも予約してるって!」
「予約じゃなくて、仮予約だって!」
「ガチャピンの腕に付いているのはエネルギーボールだって!」
なんだ。なんだ。
こちらは、ずっと同じミーティング中だ。
「予約、もう20番目だったって!」
「予約、受付終わりにした店もあるって!」
「ガッツポーズって、ガッツ石松が元なんだって!」
えーと。どうすりゃいいんだ。
ていうか、こちらはiPhoneを、どうするかなんて決めてもいないのだ。
いずれにせよ、いくら、情報が入ってきても、予約が終わろうとしても
こちらは、ミーティング中なのだ。ずっと。
すごいのは、本体価格どころか、料金体系も決まってないのに
というか、平日の昼間だというのに、あちこちのソフトバンクショップ
(実際、受付しているところは、直営店が多い)に、人々が向かって
iPhoneを、どんどこ予約している、ということ。
なんだか、無茶苦茶だ。
無茶苦茶で面白い。
これ、デビッド・フィンチャーなんだって?
家族で、TAKE ACTION! 『+1 FOOTBALL MATCH』を観に横浜へ。
日産スタジムへ行くのは、ずいぶん久しぶりのことだ。
日産スタジアム、満員で気持ちいい。
懐かしい選手ばかりで、昔のサッカーゲームを
引っ張り出して遊んでいるような感じもあるが
行く前に想像していたような、ゆるゆるの試合、ではなかった。
美しいプレイが何度も登場し、次第に興奮してくる。
ダービッツが良かったなあ。
ダービッツの、ボールがないときの動きと、仕掛けに唸る。
中田は、現役引退後、日本での初プレイだったが
僕の好きな、ドリブルで中央を上がっていく中
「ひょいっ」と、「風太くん立ったよ」みたいな
背筋を伸ばして、パスを出す相手を探す動きが見れなかったのが残念。
僕にとって、中田の動きといえば、あれなのだ。
「+1 FOOTBALL MATCH」は、地球環境を考えるきっかけ作り。
多くの来場者が「なにかできること、ひとつ。」を考えただろう。
同様な趣旨の音楽イベントも多く存在するが
同じく、世界共通言語である、フットボールの力も強いのだ。
美しいものに感動し、平和である現在を思うと
前を見つめたり、後ろを振り返る、きっかけになる。
試合が終わって、家族で、土曜日で、横浜なので
そのまま、横浜をぶらぶらとする。
石川町から関内のほうへ歩いて、中華街で食事。
どこで食事を取ろうかと、店を探しているカミさんに
「でも、東京でいつもの、筑紫楼とかロウホウトイで食べたほうが
美味しいんだろうなあ」と言ってしまい、失敗に気付く。
それは言うべきではない、NGワードだった。
帰りは、船に乗って、赤レンガ、みなとみらいと通って横浜駅まで。
下の子は、ベビーカーで寝たまま、船に乗り、船を下りる。
いつの間にか、家族4人で横浜に来るパパになった。
思ったのだが、横浜って変わったなあ。
変わってから、ずいぶん経って、思っているわけで
今更で申しわけないが、昔の横浜を思い出した。
街も、自分も、世界の環境も変わっていく。
変えるべきものは変えて
変わるべきではないものは、止めなければならない。
遠くに見える、風力発電のプロペラが、ゆっくりと回っていた。
観覧車のネオンのプロペラは、忙しく動いていた。
iPhoneが、Softbankから出る。
Softbank「だけ」なのか、わからないけど。
僕みたいなコアユーザーは置いといて
iPhoneって、どのくらい売れるのだろう。
もちろん、「売れる」だろうけども
ビックリするくらい売れるのか、ヒットって感じなのか
それなりに売れるというくらいなのか。
価格的な部分も大きいだろうし、時期にもよるし
スペックの詳細もないから、なんともわからないが
どんなものなのだろうなあ、と思う。
GPSが搭載されるかとか、そういうこともあるけど
なにより、ケータイカメラ利用多しの国民が
スペック落とせるのかな、とか。
2台持つっていう方々は、少数派として。
そもそも、メールをチャットのように使う人たちにとって
あのインターフェイスはどうなのだろう、とか。
僕みたいなコアユーザーは置いといて。
「売れる」のは、わかっているが
ほんとうに、どのくらい売れるのだろう、と気になる。
という、iPhone。
新しいケータイ電話の登場であるが
もっと「革新的な電話」っていうのは、作れないのだろうか。
電話帳や履歴から、名前探して、電話かけて
ちょっと喋って、切る、というスタイルじゃない電話。
例えば、常に10人くらいと
ずーっと喋りっぱなし、みたいなスタイル。
みんなでワイワイする電話。
主な時間は、切っていて、たまに通話ではなく。
常に1体1が基本、ということではなく。
「切る」のではなく、会話に「加わらない」というだけ。
みんな、というか喋れる人が常に、わーわー喋り合っていて
それを、スピーカーフォンで鳴らしててもいいし、OFFにしててもいいんだけど
手が空いたり、乗るべき会話になると、参加していく、みたいな。
まあ、そうは言っても、学校や仕事もあるわけで
登録してあるグループから、会話が消えるときもあるだろうけど
それでも「切っている」というわけではなく
そんな中、誰かがまた、「さっき、さぁ!」みたいな感じて話し始めて
スピーカーから聞こえてきたり、TALKの緑のランプがついたり。
そこにまた、参加していったり、誰かが参加するのを聞いていたり。
グループ間を移動したり、話題のグループに参加したり。
自分の友達グループだけじゃなくても、コミュニティでもいいわけだ。
もちろん、通常の「One to One」は、あるとして。
いや、なんか、それが、どこまで魅力的なのか
自分にもよくわからないまま書いているんだけど
いつもの「電話」というスタイルや手法の中での、革新的なこと、ではなくて
もっと大きな変化が、できるんじゃないかしら。
「便利そう!」と思えるハードや、「これで1つで済む!」というハードは
いっぱい出てくるんだけど、本質的なコミュニケーションの部分で
「うわ、これ面白そう! ヤバそう!」というの、できないだろうか。
そのくらい、興奮したいなあ。
単なるIP電話、とか、そういうものではなく
そのくらいの「革新的」なスタイルを含む、ケータイ電話が出てくることで
「ケータイコミュニケーション」業界が、ガラっと変わるんじゃないかしら。
もちろん、最初は「ウリとなるオマケ機能」なのだろうけど。
先日、初めてお会いした人と
音楽好き、ということで、エラく盛り上がった。
お話をしていく中
ある言葉、というか、ある人物の名前が思い出せなくなった。
そう、「ど忘れ」だ。
歳を取れば、取るほど、「ど忘れ」が酷くなるが
最近、さすがにこれは、出てこない場合じゃないよなあと
いうものまで出てこなくなる。
忘れているのに、忘れているものの重要度がわかっているなんて
なんとも、不思議なものである。
「ど忘れ」したのは、レニー・クラヴィッツ。
ヴァネッサ・パラディを、ど忘れしてしまうなら、まだわかるが
レニー・クラヴィッツが出ない、というのは酷い。
その話相手に、とあることを説明したくて
レニー・クラヴィッツという名前が必要だったのだが、まったく出ない。
相手も、「どうしたんですか?」などと、心配している。
「いや……、あの……、えーと、名前が出ませんで……」なんて言うと
「誰のことですか? どこ出身のミュージシャン?」と
ど忘れしているというのに、さらに難しいクイズを出されてしまう。
「んー、たしか、ニューヨーク? いやLA?」
「どんな曲がありますか?」
なんて調子で続く。
頭の中では、「Are You Gonna Go My Way」が、ずっと鳴っている。
というか、あの顔が、僕の目の前に迫っている。
ギターを弾きながら、歌いまくっている。
こんなパッキリした、超わかりやすいイメージが目の前にあるというのに
しかも歌っているというのに、なんで、名前が出ないんだろう。
この顔だ。
ここで、ちょっとモノマネでもしながら
「Are You Gonna Go My way」を歌えば、相手は100%正解するだろう。
答えを言ってくれるだろう。
楽になる。
しかし、それは、ちょっと悔しい。
「えー、有名な歌でして、僕の頭では、さっきからずっと鳴ってまして
たぶん、歌えば、すぐにわかると思うんです……だけど、ちょっと言いたくない……」
「えっ? どうして?」
「く、悔しくて。いや、正解を言われるのが悔しいんじゃなく、自分に悔しく。
こうやって出ないのも苦しいんですが、悔しいより苦しいほうがまだマシ」
なんて、わけのわかんない会話が続いた。
思うのだが、「ど忘れ」というのは、なんて不思議な現象だろう。
正解がわかっているのに、正解がわからないわけだ。
いろんな名前が頭を過ぎ去って、「いや違う、それでもない」なんて
思ったりするわけだから、ある意味、正解がわかっている。
ひとりで、クイズの出題と回答をしているようなものだ。
それが、「ごっこ」ではなく、マジだから、脳というのは面白い。
しかも、「レ……! あっ! レで始まる……気がする……!」
なんて、自分でさらにヒントも出したりする。
これはなんだろ。なんなんだろう。
「忘れる」といっても、完全にロストしたわけではない。
名前は忘れても、ビジュアルは残っていたりする。
レニー・クラヴィッツの場合は、歌まで歌っていた。
だから、違う名前を思いついても、マッチングから外れる。
「これは違う!」というのはわかる。
しかし、正解は出ない。
そして、ずーーーーっと、頑張り続けていると、正解が出たりする。
僕の場合も、しばらくしたら「レニー・クラヴィッツだ!」と、出てきた。
かなり、うーん、うーんと唸って
話相手と、コントみたいなクイズみたいな会話を続けた後、出た。
「あっ! レニー・クラヴィッツ! レニー・クラヴィッツ!!」
しかし、残念なのは
そこまでして思い出した、レニー・クラヴィッツではあるが
そこまでして続けるような、会話のネタではなかったことである。
「で、レニー・クラヴィッツがどうしました?」
「いや、もういいです。すいません」
「pupa」のライブに行った。
Liquid Room。
pupaは高橋幸宏さん、原田知世ちゃん
高野寛さん、高田漣さん、堀江博久さん、権藤知彦さんによるバンド。
まだアルバムも出る前のライブ。
新バンドの、初ライブだった。
僕が感じたのは、「初々しさ」だ。
失礼な言葉かもしれないが、初々しさを感じた。
pupaは、メンバーを見ていただければわかるように
実力、キャリアある人たちが集まったバンドである。
少なくとも、幸宏さんがいる時点で、そういうものだ。
ライブ前、なんとなく頭の中で鳴っていた音の雰囲気があった。
しかし、それは、ライブが始まると、見事にぶち壊れた。
ものすごく、初々しい。
瑞々しく、弾けていた。
まさに、それは「バンドのデビューライブ」だった。
その空気は、まったく予想していなかったので驚いた。
思えば、最近、バンドのデビューライブというものを見ていないが
久しぶりに、その空気を感じる。初々しさ。
これから、どう広がっていくか、わからない感じ。
バンドのデビューライブとしては
バンドのデビューライブらしい、というのはなによりではないだろうか。
可能性にニヤニヤして、可能性にワクワクするからである。
これからが、楽しみだ。
<<ここをクリックすると、pupaの試聴ページへジャンプします>>
ライブ後、嬉しい再開があった。
楽屋で幸宏さんに挨拶をし、遊びに来ていた
細野さんや、ほかの方々と会話をし、ちょっと一服と
タバコを吸いに、奥へ進むと
なんと、鈴木慶一さんが、いらっしゃるじゃないですか。
慶一さんとは、前にもこのblogで書いたが
『リアルサウンド』で、仕事をしていただいた仲であるが
お会いするのは、久しぶりだった。
久しぶりに会って思ったことは、僕は慶一さんが好きだ、ということ。
暫くお会いしてないことを後悔しつつ
そういう流れなのだなあと思いつつ、僕は、ほんと慶一さん、好きだなあ。
好きすぎる。
久しぶりにお会いして、「唐揚げ」の話となった。
これまた、前にblogに書いたことだが
僕の人生の好きなエピソードの数本に入る出来事であるので
ただリンクを貼ろうかと思ったが、もういちど書く。
そのくらい好きな出来事なのだ。
このステキな感覚が、伝わってくれたら嬉しく思う。
僕は鈴木慶一さんに、仕事を依頼した。
作品は、『リアルサウンド 〜風のリグレット〜』。
慶一さんが、スタジオで音楽の制作をすることになり、僕も遊びにいった。
遊びにいったとは、なんてことだ、と思うかもしれないが
音楽監督は、作曲・制作も含めて、慶一さんに任せているので
プロデューサー兼企画、監督の僕は、別になにもすることはなかった。
まず初日。僕は、なにもすることがなく、終わった。
あたりまえのように、いちにちが終わった。長かった。
そして、2日目。
僕は、差し入れをいろいろ持っていったのだが
その中に、唐揚げがあった。
もう特大パック、みたいな唐揚げ。5人前くらいあったと思う。
2日目も、僕はなにもすることがない。
これは、僕みたいな人間には、かなり厳しいことだ。
僕は、じっとなにもしない、というのが苦手な人間だし
そもそも、音楽が好きなのだ。
とはいえ、鈴木慶一さんに依頼して、お任せしているというのに
そこに僕が入っていって
「もうちょっと、ここ高い音にしたらどうですかね?」なんて
そんな失礼な話はない。
なので、黙っていた。静かにしていた。
ずっとソファに座っていた。
しかし……!
その日も終わろうという頃、唐揚げがないことに気付いた。
僕が持っていった唐揚げ。僕がぜんぶ食べてしまったのである。
手元には、空っぽになった、唐揚げのパック。
唐揚げは、好きだが、いくらなんでも
5人前くらいの唐揚げを、ぜんぶ食べるようなことはない。
というか、普通、考えたら、食べられない量だ。
なんという精神現象。異常行動。
ちょっとした恐怖すら覚えた。
僕はソファを立ち上がり
空になったパックを見せて、慶一さんに伝えた。
「僕……、今日いちにちで、この唐揚げ、ぜんぶ食べてしまいました」
最初は、なにを突然言い出すんだ?
という顔をした慶一さんであったが、すぐに笑顔。
僕の表情と、そのたった一言で、すべてを理解してくれた。
ステキな瞬間だった。
次の日から、僕も音楽制作に加わることになり
慶一さんと、楽しく、ステキな音楽をいっぱい作ることとなった。
「伝わる」、という感覚。
そんな、ステキでハートフルな関係が作れる、慶一さんという人が
僕は、好きで好きで好きなのだ、ということを
改めて思った。
上の写真は、楽屋の壁。
Liquid Roomの楽屋の壁は、アーティストの落書きでいっぱい。
いいなー。こういうの。
日曜なので、メールが少なかった。
少なくとも、仕事のメールはぜんぜんない。
なのに、たまたま、この日曜
サンフランシスコに住んでいる友人と
ベルリンに住んでいる友人と
ニューヨークに住んでいる友人からメールが届いた。
メールが届いた時間を見て
あ、いま、向こうはまだ朝か。とか。
まだ、土曜か。とか。
面白い。
インターネットのおかげで
文章、言葉という情報は、あっという間に届けられる。
違う国に住んでいる、という感覚がなくなる。
1万キロも離れているのに
メールを送ったら、すぐに返事が返ってきたりする。
ただの、言葉、が送られてきているだけなんだけど
言葉って、豊かだ。
感情が見える。表情が浮かぶ。
いま、こういう感じなんだろうな、というのが伝わってくる。
勝手なもんだけど。
言葉……サインのようなものや、単語的なものではなく
いわゆる、文章のような表現は、人間特有のものだ。
言葉がなければ、星空を見上げて
「僕たちは、どこから来たのだろう?」と思うこともないだろう。
言葉があるからこそ、言葉にならない思いも際立つ。
それを、言葉に置き換えて、自分のものとする。
言葉に置き換えることによって、整理し
言葉に置き換えることによって、記憶し
言葉に置き換えることによって、思い出し
言葉に置き換えることによって、他人と感情を共有する。
こんなことを書いていたら
カミさんから、仕事がんばれ、と電話があった。
言葉っていいなあ。
後部座席も、シートベルト着用だそうだ。
さっき、タクシーに乗ったが
そういえば、なにも言われなかったが、着用義務化だそうだ。
確かに、後部座席だからと言って安心するのはおかしい。
運転席や助手席と同様、事故後の状況も、生存率も
シートベルトを着用しているか否かで、大きく変わるだろう。
そんなもの、自己責任の範囲という気もするが
後部座席がシートベルトをしてなかったおかげで
前席の人が、被害を被ることもあるのだろう。
それは、わかる。
ものすごく、わかる。
そんなキケン、キケンと言っていたら、バイクはどうなんだとか
バスで立って乗るという、あのスタイルはどうなんだとか
いろいろ思うこともあるのだが、まあ、よしとして。
わかる、として。
しかし、なんでもかんでも、こう、法律化というのはどうなんだろう。
この件が、どうという、この件単体の話ではなく。
なんでも、かんでも、法律化、罰則化していく社会になっている。
小さい頃に見た、フィクションの未来のようになってしまうのではないか。
窮屈になっていく。
この窮屈、というものが、僕は身体の底からほんとに嫌だ。
ある意味、なにより嫌だ。
なんで、こう糞みたいな社会になっていくのだろう。
昔より、未来のほうが、ハッピーになるはずじゃなかったのか?