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October 31, 2007
数秒、数十秒

waitwait_1.jpg

朝、品川を離れ、しばらくした後、新幹線がホームに着く。
最近は週に2往復しているから
月に16回以上、新幹線に乗っていることになる。
のぞみポイントサービスがあったら
ミッフィーのお皿セットくらいは入手できただろう。


エスカレーター下り。
改札に向かおうとすると
人にガンガンぶつかりながら
エスカレーターを下りていく人がいる。
なんだろうなあ?

と思う。


人生をかけたような重要な仕事に
ギリギリ間に合わないかもしれないとか
その人のお嫁さんが産気づいてしまったとか
そういうのなら、まだいいんだけど、そうでもないだろう。

そんな人が何人も何人もいるとは思えない。


あの10秒くらいの差が、そんなに大切なのか?

そういうことが積み重なっていったとして
人生において、もしくは、今日1日において
その数十秒とか、数分が、そんなに重要なのだろうか?

「時間は大切だ」
という意味を、間違って覚えてはいないだろうか。


小さい頃、人の目も気にせず
閉まりかけた電車のドアに入っていくおっさんとか
非常識な場所に自転車を止めるおばさんとか
「そういう人間だけにはならないぞ」と思ったこと
その大事な感覚を、もう忘れてしまったのか?


エスカレーターに関しては、思うことがあるので、また、それは今度。

だけど、みんな、どうしちゃったんだろう?
エスカレーターの駆け下りもそうだし
メールしながら人混みのなかを歩いてみたり
先日は、エレベーターの中でDSやっている人がいて
「せめて、いまはええやろ!」と悲しくなった。

その姿は、魅力的か?
優しいか?
カッコいいか?
尊敬する人は、そんなことしてるだろうか?
美しいかい?


「行動」が大切になっていくと思っている。
佇まいというか、日頃の態度といいますか。

ルックスや、メールの文章などでは
その人の個性は、だんだん見えなくなっていく。
いくらでも真似ができる。いくらでも嘘がつける。

人を見るとき、その人の
ちょっとした目の配り方や、ちょっとした動きを見ている。
そこに「その人」が、よくでている。


いずれにせよ、たった数十秒。

「自分を見失わないための、テストの時間」と捉えてはどうだろう。

waitwait_2.jpg

子どもの頃、「ダメおやじ」というマンガを読んだ。
うろ覚えなんだけど、その中で、踏み切りのシーンがある。
降りかけた遮断機を、くぐって、慌てて向こう側へ行く人に対して
「そんなちょっとの時間、どうでもいいじゃないか」みたいなことを
言うセリフがあった。僕は、今日まで、思い切り同意している。

Posted by eno at 09:13 AM
October 29, 2007
新しいOS

finder_Leopard.jpg

Mac OSX Leopardをインストールした。

ワクワクが萎んでいくほど
インストールに時間がかかったが
昨晩、無事、終了。
そういう意味では、まだ、無事かどうかは、わからないね。


OSが、まったく新しくなったというようなものではなく
バージョンアップなので
いろいろな細かいところが改良されていたり
新しいものがあったりするのだが
今回は、なんだか、カチっとした気がする。

完成形に近づいているんだなあ、という感覚。

ほんとに便利な新機能に関しては、アップルのウェブサイトにある
Leopardの、ビデオガイドでも見ていただくとして……。

あまりにも基本的な部分なのだが
実行中のウインドウのドロップシャドウ(影)が
濃くなったことが素晴らしい。
ただ、それだけのことなんだけど。

もちろん、そんなことは、わざわざウリにするようなことでもなく
新しい機能、いっぱいあるんで、楽しみだ。
使っていくうちに、どんどん、そう思うようになるだろう。


社会のルール、法律でもなんでもいいんだけど
今回の、OSのバージョンアップみたいに
「あぁっ、それはいいですね」という、バージョンアップ
起こらないだろうか。

それが、政党のマニフェストみたいなものなのだろうか。
そう考えたら、政党を選ぶのって、OSを選ぶようなものなのか?

やはり、相手のOSの悪口ばかり言っていても仕方ないなあ。
コンセプトとアイデア、そしてそれを実施する能力が、必要なんだなあ。

morningtree.jpg

法律や政治にも、新しいアイデアが必要になってきているのではないだろうか。
「早く、実施する日が来てほしいなあ」と
国民をワクワクさせるようなリーダーが必要だ。
そのくらいのヤツじゃないと、リーダーにはしたくないよ。

Posted by eno at 11:12 AM
October 28, 2007
5割増し。

puddings.jpg

酷い事件が続く。
例も出したくないくらい。
ニュースはそんなものばかりだ。
ちょっと異常じゃないか?
増えてないか?
安心できる社会じゃないじゃないか。

安心できない内容だから、せめて写真はプリンにしました。


犯人が捕まり、やがて裁判が行われ
検察の求刑。しばらくして、裁判長の求刑。言い渡し。


実刑が出るところまで、大手メディアで
簡単に知ることができるのは、かなり大きな事件の場合に限られてしまう。
このたび、思うことあって、いろいろと調べてみた。

裁判所の判例など見てもよいし
googleの「ニュース検索」で「懲役」など調べてもいい。


しかし。
こんなにも、わけのわからない事件が
毎日、毎日、判決を言い渡されているのか、と驚く。
毎日、毎日、そんな事件が起きているわけだ。
どんな社会だ。


ずっと、1つ思っていることがある。

判決の結果って、罰として、軽くないだろうか?


例えば、犯罪の内容を、みんなで聞いたとする。
次に、みんなで、これくらいの罪かと、想像する。
その後、その実際の判決内容を、聞く。

だいたい、みんなが思う平均値より、ちょっと低めの
結果となるのではないだろうか。


これら、初犯が多くて、その点を考慮されているのかしら。
再起への戻りチャンスを与えるというか。
が、どうだろう?
そこを、厳しくしないというのは、おかしいのでは?
気持ちはわかるが。
だけど、加害者のほうに甘すぎるよなあ、それは。
被害者がいない罪であれば、わかる。

あと、再犯率が高いでしょう。
特に、偏った犯罪は。性癖だったり。
「性」に関わる犯罪は。


そこで、思い切って、罪を150%にしたらどうだろう。
と真剣に思う。
罪の結果を、5割増しにするという意味です。


「いや〜、それはよろしくない」という意見と
「あ、それ、いいんじゃない」という意見と
どっちが、どのくらい多いんだろう。
というか、後者のほうが、多いのではないか?


僕が思うのは
単に「罪が減るのではないか?」ということ。
罪を5割増しにしちゃったほうが。


マイナス面というのはなんだ?
弊害というか。

社会が、ちょっと苦しい感じになるとか?
たしかに、厳しい感じにはなるけど、安心感も増えるのでは?
どっちがプラスなんだろう。どっちがマイナスなんだろう。
もうここまで奇抜な犯罪が増えてきたら、仕方ないのではないか。

あとは、刑務所が犯罪者だらけになってしまうとか?
実際、どうなんだろうなあ。減るほうが影響ないかしら。
あと、タダメシ食えて、みたいなのってちょっとおかしいよね。
もっと、労働させられるでしょう。
せめて、自分の実費にかかったぶんは、働かないと出てはだめ。
逆にいうと、働かないと、メシ食べられない。

あとなんだろ。犯罪者の人権というか、そういうこと?
でも、被害者の人権もあるわけで。
被害者は、加害者の犯行がなければ、被害者じゃなかったからね。
それを考えたら、1人でも被害者を少なくすることのほうが大事。
社会に安心を与えるほうが大事。


そこで、1つ訂正。というか加え。

被害者が存在する犯罪に関して、罪の内容、5割り増し。

ではどうだろう。
1割増しとか、2割増しではなく、5割増し。
そのくらいの、突然さがあれば、大きなニュースになる。
「あぁそうなんだ」と、いい抑止力になるんじゃないだろうか。
抑止というのは、加害者になりそうだった人を
加害者にならずに済ませるわけだから、大きな効果と言えるよね。


問題はなにか?

いや、いろいろあるんだろうけど
トータルのプラマイを、考えたら、どうだろう。
ほんとにマイナスのほうが、大きいの?

そうでなければ、なぜ、そうしないんだろう。


「安心して暮らせる社会」というのは
みんなで、なによりも守るべきものじゃないのだろうか?

それに優先することなんてあるのかしら。
少なくとも、犯人の人権なんかよりは、大切なことだと思うなあ。

僕が気付いてない、マイナス面も、いっぱいあるかもしれない。
だけど、やはり、トータルで考えて、プラスだと思うんだよなあ。

montblanc.jpg

安心できない話しだったので、最後はモンブランで締めました。

Posted by eno at 04:11 AM
October 27, 2007
a morning in the life.

071027.jpg

8時くらいに起きる。

カミさんと、子どもたちは、まだ寝ている。
そっと起きて、そっと傘を取って、家を出る。
オフィスへ。


8時45分、オフィス着。
ケータイを見ると、西健一から着信があった。
午前をとっくに回った時間に。素晴らしい。


受信メールを読む。
その1。
Yaccoさんから、本日15時からの
表参道KDDI STUDIOで行うトークショウのお誘い。
トーク相手は大貫妙子さんじゃないですか。

その2。
サンフランシスコに住む友人から。
今日、ホーネット・ミュージアムでDJするとのこと。
「I'll play HASYMO!」と書いてある。
サンフランシスコで初めて爆音でかかるHASYMOかもしれない。
しかし、いまからサンフランシスコに行きようがない。

その3。
Appleからのメール。今日、新しいOS、Leopardの発売で
World Premiere Eventがあるという案内。
残念ながら、ここは日本。
そして、時差の関係で、昨日、発売されている。
だから、そのイベント、Premiereでもないと思う。

そのほか、いろいろ読んで、お返事。


「marie claire」の掲載誌が届いていた。

ほんの100文字くらいのコメントなのですが
「地球未来予測」という企画に参加させていただいた。
知ってる人も多く載っている。仲間感あるなあ。

同じページにダナ・キャランが載っていることに笑い。
ページをめくると、セヴァン・スズキが載っていて光栄。

ちょっと前にも見たけれど、セヴァン・スズキのスピーチを
再度、見直そうと思う。YouTube。

彼女は、世界に衝撃を与えた。
1992年ブラジル、リオ・デ・ジャネイロ。環境サミットでのスピーチ。
ぜひ、見ていただきたい。しっかり聞いていただきたい。
字幕もあります。

ビデオを見終えて、窓を開ける。
まだ、そんなに雨は強くなっていない。

そんな10月の朝。いつもの朝。

さて、仕事するか。

Posted by eno at 10:32 AM
October 26, 2007
one42

one42_logo.jpg

友人の西健一から、数日前、突然の誘いがあった。


テーマを決めて
そのテーマで一緒にブログ書かない?
テーマは毎回持ち回りで。

というメールが届いた。


面白いと思う。
なんだか、よくわからない、そのタイミングが面白い。
あとは、西健一からの誘いというのが面白い。嬉しいね。


というわけで、初めてみた。

ウェブサイトの名前は「one42」。


1つのテーマを、2人で書く。
2つの視点で描く。

「eno(イーノ)」と「24(ニシ)」を
ひっくり返して、「one42」。


行く先も、辿り着くところも、道程までも見えないけれど。
ま、やってみようじゃないかと思う。
なにかが見えてくるといいね。見えるだろう。
それを共有したいね。


「one42」には、下のリンクから。
もしくは、右にバナーが貼ってありますので、そこからどうぞ。


<<ここをクリックすると、「one42」のウェブサイトにジャンプします>>

ぜひ、お楽しみに。

Posted by eno at 10:40 AM
October 25, 2007
見てる。

cameras_1.jpg

いつものように、新幹線を品川で降りた。
やはり、いっぱいあるなあ。

前からずっと気になっているわけだが
品川駅では、新幹線の改札を出た先に
ものすごい数のカメラがぶら下がっている。
上の写真がそれだ。
実際には、左右にもっとある。


まるで、出迎えをしてくれているかのように。
しかし、その目つきは「お仕事ご苦労様」という感じではない。
なにか、冷たく、そして気持ちが悪いものだ。

ぶら下がっているやつらだけではない。
改札を抜けた壁にもたくさんある。
下の写真がそう。

cameras_2.jpg

そこから、品川駅の海のほうではなく、山手線の内側のほうへ
さらに歩いていくと、またカメラがある。
ちょっといくと、またすぐにある。
そして、またある。
もうカメラだらけである。


あれはなんだろう?
「防犯」という曖昧な言葉で、説明されるものなのだろうが
単なる防犯というくらいで、そこまでの数が必要だろうか。

顔認識などしているのだろうか。
逃走犯とか、要注意人物とかを、機械判定して
場合によっては、警察等に届け出たりするのだろうか。


なんだろう?
すごく、居心地が悪い。
気持ちが悪い。

例えば、顔認識が目的だったとして
勝手に、こちらを撮影してよいものなのか?

いまや、街中にカメラがあるのは知っている。
新宿とか渋谷を歩くと、よくわかる。
という事実から考えると、問題ないのだろう。

だけど、勝手に撮影して、場合によっては
警察などに勝手に届け出てよいものなのだろうか?

よいものなんだろうし、防犯に役立つなら
ありがたいことではあるけれど、なんだろうなあ。
気持ちが悪い。
個人情報が騒がれているが、なんでこれはOKなの?
法律の範囲をしているわけではなく、僕らの意識として。


こんな調子で、どんどんカメラが増えていくのだろうか。
品川駅で新幹線を降りて、駅から出るまでに
たぶん、数十台のカメラが僕を撮影している。
この時点で、もう、すごい数なわけだけど
そのうち、1メートル間隔くらいで、カメラだらけになるのだろうか。

或いは、音声はどうだろう。
電車内のいたるところに、マイクが仕掛けられる。
ちょっとした会話をすべて録音。
そんな会話から、犯罪性があるものを拾うと、自動で通報。
ドアが開き、ホームに立った瞬間に、拘束されたりするのだろうか。

そんな社会。
人の会話を勝手に録音されるというのは
感覚的に、ちょっとどうかと思う。

だけど、映像だって、同じようなものではないか?
いま現在、撮られまくってるわけだ。


改札を出て振り向く。
人の流れ。
気づくと、誰もカメラを気に留めない様子である。
みな、無言で、改札を通り過ぎ、歩いていく。
カメラをチェックしたり、見上げるものはいなかった。

その危機感のなさって、大きな問題ではないか?
大丈夫か?


品川の駅に設置される無数のカメラ。
別に、それ自体を、そんなに問題視しているわけではない。
プライバシーと、防犯の天秤なわけだ。
幸い、撮られて困るプライバシーは持っていない。
単なる「気持ち悪さ」だけ。
それだけ、が、すごく嫌だ。

でも、その「気持ち悪い」と思う感覚は、大切なのではないか?
それがなくなってしまうことが、大きな問題なんだ。


知らぬ間に世の中が変わっていく。
誰のために?

世の中に気持ち悪いものが増えていく。
いまはまだ、いいとしても。

毎日、1ミリずつ伸びる雑草の生長に、僕らは意識を向けられるだろうか。

cameras_3.jpg

Posted by eno at 11:50 PM
October 24, 2007
祝っていただき感謝します。

ouen.jpg

応援感謝、致します。


昨日は、本blogの記念すべき5周年の日でした。
「祝って」と書いたところ、多くの人に祝っていただきました。
ありがとうございます。

blogに書いていただいた方、感謝致します。
gmail宛てに、メールくださった方も、ありがとうございました。
mixiは、僕はやっていないのですが、閲覧させていただきました。
コミュニティも、ありがとうございます。

元気になりますね。嬉しいや。
感謝致します。


以下は、検索エンジン等で探したのですが
祝っていただいた、ありがたい人たちのblogです(10月24日19時半時点)。
(まだ発見できていないのもあると思いますが……すいません)

TRENDKILL BLOG
拳が奥まで
BACK BEARD PAPA
kanatukichiharuの日記
埼玉ジャック
マイナスドライバ
パノラマ日常奇談
everything under the sun
てきと〜BLOG
Tune up!
KazuFromJP

「わざわざ」書いていただいた、その気持ちが、ほんとに嬉しいです。

これからも、宜しくお願い致します。

Posted by eno at 07:31 PM
October 23, 2007
5-year anniversary

5year_1.jpg

5周年だ。
このblogを初めて5年になる。

気付かずに通り過ぎるところだったが
2週間くらい前に、たまたま気付いた。

途中、かなり飛んでいるところがあるし
更新頻度も少ないこともあったけど
なにしろ、5年になるわけだ。

5年も前からblogをやっている人って
かなり少ないと思うので、なかなかの記念である。

始めた頃は、blogというのは
その言葉自体もかなりマイナーだった。
それがいまや、すごいねえ。
個人がメディアを持つのは素晴らしいことだ。

2002年10月23日。

いま思えば、このblog
その最初の日にデザインした、ままなんだよね。
INDEXとスタイルシートをいじってレイアウト変えて
Photoshopで色々と描いたりして。
たぶん、スタイルシートをちゃんと使ったのって
その日が初めてだったんじゃないかな。

もう、5年前のものだけど
そんな古い感じもしないでしょ。
近いうち、リニューアルしようかなあ?

ということで、この「eno blog」、5年経ちました。
読んでくれている人は、祝ってほしいな。
blogのことなんだから、blogを持っている人は
自分のblogに書いてくれると嬉しい。
持ってない方は、右のメールにでも。
でも、blogで書いてほしいなあ。
誰も書いてくれなかったりして。(-:

5year_2.jpg

もう5年かあ。
5年を記念して、初めて、この言葉使ってみよう。
「飯野賢治です。これからもよろしく!」
自分の名前って、書いたことなかったんだ。

Posted by eno at 04:46 AM
October 22, 2007
大阪結婚式

osakawed.jpg

カミさんの弟の結婚式に出席した。
カミさんの実家は大阪にあるので、大阪へ。

もう籍は入れていたわけだけど
公に「結婚しますよ」という意義があるわけだよね。
互いの両親も親戚も集まるから大変だ。
あとは、神様に対して、報告と誓いをする儀式ね。


「結婚ってなんだろう」と久しぶりに考えた。

我が家は、もう結婚して13年近いから
「夫婦ってなんだろう」とか「家族ってなんだろう」というのは
たまに考えたりするけれど、結婚については久しぶりに考えた。

「結婚ってなんだろう」というのは
それぞれの夫婦が考えることであって
「なんだろう?」と考えた結果、答えを出したカップルが
結婚に至ったんだろうなあと思う。

そこをしっかりと、考えたり、話し合わなかったりしないまま
結婚してしまうと、後々、いろいろと起こるのでしょう。


幸あれ!

絶対の応援者、言い換えれば味方を
互いに持つことができるというのは素晴らしいことだ。

いろんなことがあるだろうけど
それを2人で乗り越えていってほしい。
乗り越えること自体も、楽しんでね。

おめでとう。

幸せがこの世に1つ、新たに生まれた。

Posted by eno at 06:30 PM
October 20, 2007
ラガーは変わるな。

red_1.jpg

先日、広井王子さんに会いにいった。
久しぶりに会ったら、オフィスは引っ越していて
レトロ装飾たっぷりのオフィスになっていた。

広井さんは、『魔神英雄伝ワタル』とか『サクラ大戦』とか
『天外魔境』などの作品のクリエイターだ。

広井さんと会うのは、もう7年ぶりくらいだろうか。
もっとかもしれない。
とにかく、かなり久しぶりの対面となった。

いやー、なかなかいいもんだった。

7年という、あまりの歳月によって
なんとなく直接話すのは、恥ずかしいなあという雰囲気もあり。
互いに、このたび繋いでくれた人に向けて会話してしまったり。
「直接言えよ」と互いに思いつつも
最初は、どうしても、間接的だったり。

すっぱい。
なにか、すごくすっぱい。

7年という歳月が、いろんなことをすっぱくする。
それが、すごくよかった。

当時、広井さんと僕に交流があったのは
90年代後半の、わずか3年くらい。

その3年くらいの間に、たまに会ったりはしたんだけど
その話しの濃さとか、意味合いにおいて
7年ぶりに会った、たった1日のほうが、大きかったかもしれない。
8時間くらい喋ったし。

会う必要なんて、ぜんぜんなかったわけだ。
なにか、2人で共有していることもないし
一緒になにかをやっているわけでもない。
だけど、どこかで偶然ばったりと再開したわけでもなく
「会おう」と思って会ったわけだ。

それがすごくよかった。
久しぶりに会って
「おう、久しぶり!」
「おっ、久しぶり!」
というのが、7年なんて、すごくいいね。

久しぶりに対面した
その瞬間の、相手の顔がすごく忘れられない。
向こうもそうだったであろう。

久しぶり会った、そのときの顔。
ちょっと牽制しつつ、微妙に防御もしつつ、やや攻撃しつつ
だけど、久しぶりに会えた、という嬉しさ、喜びからくる
笑顔が、どうしても前面に出てしまう。

食事へ向かうタクシーの中
「もう7年? 8年?」なんて会話をした。
僕が「こうやって、かなり久しぶりに会うのもいいもんだね。
長生きするといいことあるもんだね」と言うと
広井さんが「ほんとうにそうだね」と言った。

なにかの取材でもなく、打ち合わせでもなく。

そういえば、先月は、遠藤雅伸さんとも
同じくらい、7年とか8年ぶりに会った。

なんだか、よくわからないけど、そういうタイミングなのかもしれない。

「時代は変わる、ラガーは変わるな」と
なんだか、そう思った。

red_2.jpg

広井さんのオフィスは、広井さんらしかった。
お互い、いっぱい変わったことはあったけど
基本は、あんまし変わってないかもしれない。

Posted by eno at 06:28 AM
October 17, 2007
automatic

eveningsky.jpg

子どもの頃から、気にしていることがある。
気にかけているというか、たまに注意していることがある。

それは、どのくらいオートマティックになってしまっているか?


例えば、喉が渇いて、冷蔵庫に行って
水でも、お茶でも、ペリエでも、ゴクっと飲もうとする。

そのとき、冷蔵庫がある場所まで直線ではないとして
いちいち、「はいここで右に曲がって」とか「振り向いて」とか
そういうことを、自分に命令して動いているわけではない。

もっといえば、「はい右足、はい左足」などと
いちいち考えて、歩いているわけではないだろう。

そういうことはいい。
そういうことは、そんなもんでいい。


だけど、「意識的に」、判断して、行動したり
なにかを決断したり、なにかを喋ったりでもいいんだけど
そのくらい「意識したこと」って、どのくらいあっただろう。


例えば、この1日とか、この数時間で
「自分でしっかり考えて行動しました」というのは
どのくらいあっただろう。


オートマティックに、生きちゃってはいないだろうか。


部屋の呼び鈴や、インターフォンが鳴ったとする。
或いは、ケータイ電話が鳴ったとする。

「は〜い」とか言って、立ち上がり、ドアへ向かう。
ケータイ電話を手にとって、着信の表示を見たりする。

それって、あんまり判断していない。意識していない。

「呼び鈴が鳴ったから」→「立ち上がってドアへ向かった」
「ケータイが鳴ったから」→「ケータイ電話を手に取った」

もしかしたら、そんなことの繰り返しで生きていないだろうか。

なにかがあったから、こうする。
なにかがあったから、こうした。

お腹がすいたから。
家を出る時間になったから。
テレビが始まったから。
友達が呼んだから。
眠くなったから。


きっかけがあって行動、そしてオートマティック。


まだ小さい頃は、「なにがあったから、こうするべき」という
経験が少ないから、そんなにオートマティックではない。

そもそも、「なになにに、なったから」みたいな
決まったパターンに入らないとならない、きっかけも少ない。

ぜんぜん、なにも関係なく
「家の外に出てみよう」とか
「おもちゃ箱を開けてみよう」とか
「ソファの下を覗いてみよう」とか「もぐってみよう」とか。


そんな小さかった頃から
いろんな経験を積んでいったり
役割や責任とか、背負うものが生まれたり
だんだんと、オートマティック時間が長くなってしまう。

1日の中の、オートマティック時間の割合が多くなっていく。


駅から自転車で家に帰るとする。
あまり意識しなくても、特に判断しなくても
何度も曲がり角を曲がったり、ブレーキングしたり
足で上手にスピードを調整してペダルを漕いでいる。
いつの間にか、家に着いている。

家に着いているどころか、ドアを開けて、靴を脱いで
コップに水を入れて飲んで、リモコンでテレビをONにして。

オートマティックになっていないだろうか。


それじゃ、まるで
なるべく考えたり、判断しなくてもいいように
今日まで、膨大な経験を積むために、生きてきたみたいじゃないか。

「生きている」といえる、時間が、短すぎるじゃないか。

注意が必要だ。
意識が必要だ。

しっかりと意識をしないと
意識をする間隔が、どんどんと、延びていき
しまいには、意識しないままになってしまうのではないか。

意識をしないまま、ずーっと。


過去の蓄積された経験だけを頼りに
オートマティックに生きてしまってはいけない。
成長したからこそ、未来のために、意識して、判断して
生きていくべきだ。


気付かないまま、ふたたび、眠りに入ってしまわないように
しっかりと目覚めよう。

Posted by eno at 03:08 AM
October 16, 2007
Jail-Breaked

breakfreetouch.jpg

iPod touch、Jail Break成功。
やっと自由になれた。

スタート画面がアプリで埋まるのは楽しい。
スカスカで気持ち悪かった。

こうやって、自由にいろいろ入れられるようになると
ますます、面白いおもちゃになってくる。

ていうか、この作業が
iPod touchを買ってから、最も面白かったなあ。

こんなに素晴らしいんだから、正式にならないかしら。
LeopardにSDKがあったりして……ないか。

Posted by eno at 04:04 AM
October 15, 2007
カテゴリー

miyako07.jpg

なんか、ないもんだろうか、と思う。

例えば、どこか平日の夜に。
仕事もそこそこ、ちょっと気分転換したいなあとか。
息抜きが必要だけど、1人でいるのもなあとか。

そういうときに、行く場所って?

クラブに行く?
いや、音楽ガンガンで発散、という感じでもなく。
カフェに行く?
いや、誰かと二人っきりで会話というわけではなく。
レストラン?
いや、食事ではなくて。

上の中だと、そういうときは、クラブが近いし
ラウンジっぽいところだったら、もっと近いんだけど。

しかし、そこに行けば、音に身を任せるか
そうでなければ、そこにいた誰か知り合いと会話でもするわけで。

そういうんじゃないよねえ、というときの場所がない。
「こうしたい!」というのではなく。
子どもの頃、面白い友達の家に遊びに行くような、ね。


僕は、音が好きだし
常に、いろんな音と出会いたいと思っているわけだけど
例えば、クラブだと、一応のある領域の音であることが決まっている。
決まっているなんて言ったらよくないかもしれないけど
踊れるとか、身体が動くとか
最低限、そういうニーズを守った音楽となるわけだ。

なぜ?
クラブだから。

それは、それでよいわけだ。
それを、否定しているわけではない。
だけど……。

そんなのばっかりじゃねぇか、と思う。


僕は、これから「新しいカテゴリーの創造」が
ビジネス面でも、単におもしろ面でも、重要になってくるとよく言っている。

いや、そういうものが、メジャーになっていくとか
そういうことを言っているわけではない。

明確なニーズがあるときのほうが多いと思うし。

「四川料理が食べたいなあ」とか。
「エレクトロで気持ちよくないたいなあ」とか。
「久しぶりに会う友人と2人で語り合いたいなあ」とか。

だけど、そうじゃないときもあると思うわけ。
明確なニーズが決まってないからこそ、ワクワクできると思うわけ。


僕がもっと若かったときは、「街」がそれを受け止めてくれた。
代官山に行ってみようとか、青山をブラブラしようとか。
街に対して、ワクワク感があったんだよね。
誰かと会うかもしれないとか、なにかが起こるかもしれないとか。
あ、新しい店、発見した、とか。


話しを戻すと、機能じゃない価値、ワクワクという価値が
だんだんと、必要になってくる、支持されるようになってくると思う。

新しいカテゴリーの創造が重要なんだ。


飽きちゃうというか、見えちゃうとワクワクしなくなっちゃう。
やる前に見えちゃう。行く前に見えちゃう。

これは、どんなことにも当てはまっていくと思う。


ワクワク感という面において
オンラインに負けしまってるんだよね、リアルな世界が。
実際どうかということではなく、可能性という面において。
上で述べた「街」というものが、いまでは、オンラインなんだと思う。


いや、場所に限らず、なんだけどね。
これからのクリエイターが、クリエイティブをしていく上で
大事な考え方が、新しいカテゴリーというものだと、僕は確信している。

Posted by eno at 09:39 AM
October 14, 2007
父親が息子にできること。

boxing.jpg

時間が経つと、すごい悲しさが襲ってきた。
試合後は、「内藤選手よくやった。亀田、あかんやろ」
というくらいのものだったが
時間が経つと、冷静な悲しさが襲ってきた。
悲しい現実が、頭をぐるぐるする。


亀田家は、「父と子」の家族だ。
母親は離婚しているが、その事実以上に、父の家なのだろう。
僕は、小さい頃に母親と離れ、ずっと父親と二人の家だった。
そんな「父と子」の世界で、父親ができることってなんだろうと思う。

父親のできることってなんだ?

母親がいる家庭であっても、「父と子」の時間は存在する。
父親には父親の役割がある。その子が男であれば、その役割と責任は大きい。

父親のできることってなんだろう?


ボクシングを始めたのは、いじめられっ子だった興毅くんに対して
強制的にやらせたことが、そのきっかけだったという。
「ボクシングをやめたい」というと、家の外に放り出し、食事を与えなかったという。
生活のために、解体現場で銅線を拾わせて、生活費にしていたこともあるようだ。
そして、あの父親を中心とした、家族が一丸となった練習風景。
試合でも、セコンドと選手という関係。


もう、完全なひとつの小さな世界である。
外の世界は関係のない、父と息子たちの完全な世界。
小さな世界にいる、互いだけを、互いが信じて生きている。


だから、あぶない。
だから、危険なのだ。


そんな小さい世界に生きていて
子どもが、親父を否定できるだろうか。

息子たちから見たら、この世界は、自分たち家族の小さな世界と
それに対する、「ほかの世界」と見えているだろう。

まるで、小さな洗脳集団のように思えるが
実は、息子たちは、冷静な目を持っていると思っている。
だけど、否定なんて、できるわけがない。
自分たちを育ててくれた親父を。
小さな世界に、親父だけを取り残すことなんて、できない。

「これでええんや」「これが正しい」
という父親という世界の主が掲げる、ルール、生き様、価値観から
ずれた行動さえ、できなくなってしまっている。
わかっているけど、できない、という、その現実が悲しい。
その悲しさを生んでしまっているのが、父親であることが辛い。


先日の試合前、次男の大毅くんが
相手の内藤選手に対して、「ゴキブリ覚悟しとけ!」と言った。
自分よりキャリアの長い、世界王者に対しての発言である。

こんな馬鹿な奴は、頭をしっかり殴ってあげなければいけない。
頭を殴ってやる人物が、存在しないということがなにより悲しい。

その役割が自分であるということをわかっていないばかりか
父親自ら「内藤はゴキブリの親玉やからな」と言う。


父親が息子にできることは
自分の価値観を、思い切りぶつけて育てることであろう。
自分が信じるもの、自分が正しいと思うことを
まっすぐ、息子に対して、ぶつけることであろう。

だからこそ
自分がぶつけた価値観を、息子は疑いもなく信じて成長することを認識して
なにが正しいのかを、しっかりと考えるべきだ。
しっかりと、考え直すべきだ。
例え、それまでの自分の人生を、或いは人生の一部を否定することになっても
自分の息子のために、しっかり考えるべきだ。

そして、息子が育ち、息子が少しでも外の世界に目を向けたら
思い切って、自分の世界から、解き放ってやること。
自分という存在から、巣立たせてやること。

親父である自分より、もっと大きな人間や、もっと豊かな人間が存在すること
世界は素晴らしく、世界はもっと広いということを
教えてあげることが、父親が息子にできることなのではないかと思う。


自分から解き放つこと。
そのとき、父としての存在は、一瞬「死」を意味する。
そして、それができるのが、「父親」という存在なのではないかと思う。

Posted by eno at 01:22 AM
October 09, 2007
『きららの仕事』

kirara.jpg

『きららの仕事』、第一部が終わった。
16巻までの大部分がすしバトルだったが、新しい展開の第二部に期待したい。
(また、すしバトルだろうけど)

『きららの仕事』は、鮨のマンガである。
主人公は、女の子の鮨職人、海棠きらら。
江戸前最後の遺伝子のプライドを懸け、他の鮨職人と戦っていく。


料理マンガは多く存在する。
古くは『美味しんぼ』『ミスター味っ子』など。
ちょっと路線が違うが『大使閣下の料理人』がすごく好きだ。
『味いちもんめ』もいいなあ。
最近では『あんどーなつ』の展開に期待している。


さて。
料理マンガのキモは4つあると思っている。

1.キャラ&物語
2.うんちく(知識)
3.勝負
4.リアクション

このうち、3の「リアクション」に
ある程度、比重を置いたマンガが存在する。
料理マンガというより、「リアクションマンガ」というジャンルのようだ。

なぜ、リアクションでマンガが成り立つか?
というと、料理の味はマンガでは伝わらないからだ。

その「伝わらない」ということを逆手にとることで
料理マンガは、マンガの新しい道を切り開いてきた。

このリアクション(料理)マンガの、基礎を築いたのが
元祖リアクションマンガ、『ミスター味っ子』である。
食べた料理の感動で、大阪城を破壊したり(美味くて)。
モーゼの十戒のように海が切り開いたりもした。
その新しい作風に出会ったときは、感動したものだ。

その『ミスター味っ子』の遺伝子を引き継いで
見事に進化させたのが、『焼きたて!!ジャぱん』だった。
3年くらい前にblogに書いたが
当時『DEATH NOTE』と、並べているくらいの評価だ。

しかし、その後、リアクションマンガの壁にぶち当たってしまう。
それは「リアクションのインフレ」だ。
『焼きたて!!ジャぱん』は、リアクションを激しく展開した。
審査員がパンを食べて、臨死体験して、天国に行ったり。
マンガが突然「銀河鉄道999」の世界になったりもした。

最初は、カニぱんを食べた審査員が、手がカニになって横歩きとか
(まぁ、これもこうやって書くとすごいんだけど)
かわいいものだったが、どんどん加速して、インフレしてしまう。
インフレすると、「ぶっとび」=「幻想的リアクション」メインとなる。
そうなると「その先」が、苦しくなってしまう。

だって、「食べたら美味い」で→「マンガが銀河鉄道999の世界に」
なんていう、「幻想的リアクション」(以上だけど)をやってしまったら
もう、ちょっと「それ以上」は難しいでしょう。

そういえば、食べたら自分の生まれる前にタイムスリップしてしまい
自分を生んだと同時に死んでしまった母親を救った代わりに
歴史が動いてしまい、世界を変えてしまった、なんていう
「幻想的リアクション」の極み、みたいなものもあった。
破水した自分の母親を抱えて走るシーンなんて、なんだかもう
マンガのひとつの到達点だったように思える。

あらら。
話しが、ぜんぜん『きららの仕事』にいってないな。
ちゃんと戻ろう。
このblogまで『焼きたて!!ジャぱん』にやられてしまったようだ。


さて、『きららの仕事』。
『きららの仕事』、最初は、バトルマンガではなかった。
勝負はあるんだけど、「バトルのみ」ではなかった。
しかし、途中から「すしバトル」という大会がスタートしてしまう。

それが、ものすごく心配だった。
もうどう考えても、「リアクションマンガ」への転向である。

しかし、すぐには、「幻想的リアクション」には展開しなかった。
これは運がよかったといえる。
3人いる審査員が、「それができる」キャラクターではなかったからだ。
やってもフランス人審査員が「トレビアーン」とか言うくらいだった。

そして、満を持して、9巻。
全16巻だったので、その半分を過ぎてやっと
「幻想的リアクション」が始まる。
途中でわざわざ審査員が入れ替わったので、意図してのことだろう。

その記念すべきリアクションが
裕福な家庭に育った鋭い感性の女性食事ライター、小南由希のリアクション。
石川県七尾のコハダの鮨を食べ、言う。

kohadakun.jpg

「はぁ…喉がキュンてして… まるでコハダに恋したみたいです」

その背景では、女子高生だった自分が、同級生の男に
「コハダくんこれ!」と言って、ラブレターを渡している。

コハダくん……て。

素晴らしかった。
「幻想的リアクション」のスタートとしては見事な技だ。
「幻想的リアクション」に行きつつも、飛びすぎない。
作者は、リアクションのインフレの怖さを、よくわかっていたのだろう。


そんな抑えたコントロールのおかげで、破綻せずに
第一部の最終回を終えた、『きららの仕事』。
伏線も散りばめつつ、第二部のスタートが楽しみだ。

くれぐれも、リアクションのインフレだけは、気をつけてもらいたい。

Posted by eno at 01:39 AM
October 04, 2007
安全と信用。

remocon_jackt.jpg

大きな判断であったと思う。
任天堂が、Wiiをより安全に使ってもらうために
「Wiiリモコンジャケット」なるものを提供するという。

「あぶないからつけて」ということだ。


Wii本体や、Wiiリモコン、はじめてのWiiパックを
持っている人に、無償で配る、というのだから本気だ。
アナウンスだけではなく、行動している。

そんなことをするわけだから
ちょっとしたら、最初から本体に同梱となるだろう。
ていうことは、「Wiiのリモコンはこれ」というのが
ジャケットをつけている状態が基本となるわけだ。

誰がどう見ても美しくないし
テレビのリモコンに似させて、ゲーム慣れしていない人たちに
こわがらずに触っていただこう、という当初のデザインコンセプトは
どこかにいってしまうデザインだ。

だが、安全を取った。
安心・安全を選択した。


「より安全に遊んでいただくために」とか言って
純正のアクセサリとして販売するわけでもなく
「やっぱ、これないと、ちょっとあぶなかった。ごめん」という選択。
なにしろ、みんなに後付で配っちゃうわけだから。


全世界、2000万個の配布を予定していて
そのコストは20億円にもなるという予測記事もあった。
どこまで正確かはわからないが、いずれにせよすごいコストだろう。


それに対して、市場がどう反応したかというと
なんと、株価がめちゃくちゃ上がっている。
発表の前、10月1日まではずっと59000円台だったのが
昨日の終値でもう64300円。
いままでの最高値だと思うし、10%アップだ。これはすごい。
企業の姿勢と対応に好反応という結果になった。

この姿勢→対応→市場の反応、というのは
これからの大きな指標になるのではないか。
もちろん、ゲームに限らず。
対消費者企業の取る行動として。

jackt_variations.jpg

どうせなら、このくらいポジティブだったら面白いのに。
単なる「対応」ではなく、ポジティブにもっていっちゃう。
「付けなきゃいけないのか」から「付けたいなそれ!」に。
まあ、どこかがこういうの販売するだろうけどね。

Posted by eno at 03:50 PM
October 02, 2007
自発的20世紀少年

20thcenturyboys.jpg

新しいマンガの楽しみ方をお伝えしたい。
最近、時間があれば、これを試して、楽しんでいる。

どうやるか?
というのは、非常に簡単で
書店で、10巻くらいまで出ているマンガを見つけて
その中から、テキトーに5巻とか3巻とか、「途中から買う」。
それだけ。

そして、その巻が終わったら、また違う巻を買う。
ということの繰り返し。
どうしても続きが読みたいときは、連続する。
しかし、基本的には崩して、読んでいく。

例えば
5巻→3巻→6巻→7巻→4巻→1巻→2巻→8巻→9巻→10巻
というようになる。

そこまでのバラバラが厳しい内容だったら
5巻→6巻→7巻→2巻→3巻→4巻→1巻→8巻→9巻→10巻
くらいの揃え方でもよい。
そのバランスは、そのマンガの内容によって、自分で判断する。

これが、かなり面白い。
特に最初の頃が面白い。

まず、設定がさっぱりわからない。
「だれだ、これ?」とか「どこだ、ここ?」とか
「なんじゃこれ?」と、わからないことがいろいろ起こる。
わからないことだらけだ。

「低学年向け」が「上級生向け」になる。

そのわからないことが、物語的にわからないのか
自分が理解できていないのか、単にそれ以前の巻で説明があったのか
それすらわからないことが、すごく面白い。

そして、読み進めたり、読み戻っていくうちに
だんだんと、いろいろなことがわかってくる。
これが気持ちいい。

いつ1巻に手を出そうか、ちょっと悩んでしまうくらいだ。

あまりに伏線が多くできてしまうので、苦しくなるときもあるが
それが、パラパラと解けていく感動が、すごい。

「えっ、これ妹だったの?」とか、重大な読み落としまである。
数巻飛んで、出てこない人物がいると、なぜいなくなったか考えてしまう。

そして、最後の楽しみ方として
なにより、2度おいしいのだ。
めちゃくちゃな順番で読み終えたあと、普通に1巻から読み進めると
ものすごく気持ちいい。

僕はこれを、「自発的20世紀少年」と呼んでいる。

ただし、この読み方をするときは、マンガの選択も重要だ。
書店で、バラバラに読んで面白そうなマンガを選択することから
その楽しみは始まる。

「美味しんぼ」とか、「アカギ」をバラバラに読んでも面白くない。
それぞれ別の理由で。そういうマンガは普通に読むことをお勧めする。

長いストーリーがあって(ありそうで)
物語の舞台が動くもので(動きそうで)
登場人物が多く出てくる(出てきそうな)もの。

マンガに少し飽きたあなた。
新しいマンガに出会えないと嘆くあなたに。

「自発的20世紀少年」、オススメします。

rocky.jpg

こんど、僕は、DVDのチャプターで、これをやってみようと思っている。
ロッキーですら、楽しめるのではないだろうか。

Posted by eno at 05:27 AM