今日で今年が終わる。
あと数時間で2008年がやってくる。
年の変わりなんて、なんの意味もないことだが
なんの意味もないからこそ、意味を見出す余白がある。
今年はどんな年でしたか?
僕は、今年はどんな年だったかなあ。
今年は、ふんばりの年だったように思える。
仕事上、大きなアウトプットもなく。
それなりに、山有り谷有りではあったけど
じーっと仕事を繰り返していた。
仕事で、考えたり、悩んだり、することが多かったなあ。
今年は、いろいろ準備の年だった。
仕事以外では、YMOの復活が大きかった。
横浜パシフィコでの、Human Audio Spongeに始まって。
その後、LIVE EARTHの京都で、YMOがライブ
という噂を聞いたときは、興奮したなあ。
YMOの復活そのものも大きかったが
YMOの復活をきっかけにして、自分を多く振り返った。
子どもの頃、あれだけ聴いていた音楽だから。
blogにも書いたけど
東寺のYMOの楽屋に入るときは、くらくらきた。
楽屋の入口に「YMO様」って書いてあるんだもん。
あたりまえだけど。
子どもの頃、友達を部屋に集めて
YMOばかりを聴いていた自分を連れてきてあげたいと思った。
そして、なにより、下の子の誕生。
家族が1人増えた。
3人が4人になる、というのは、大きい。
チーム感が増した。
父+母+子、というそれぞれ1人の状態に比べ
家族という感じになった。
まだちびっ子すぎて、はっきりしないけど
なんとなくの性格も見えてきて
上の子とは違うっぽくて、これからが楽しみだ。
上の子は上の子で、来年は4年生になる。
自分を振り返ると、小学校4年生くらいから人間らしくなった。
趣味とか嗜好が芽生えてきて、個性的になってくる。
楽しみだ。
どんなものにハマっていくのだろう。
いま感じたことだが、今年は人間関係が大きく整理されたように思う。
整理とかいうと、えらそうだけど。
自分から好んでというわけでもないから、そう思える。
去年まで会ってた人と、今年会ってた人はちょっと違うなあ。
こんな人間だけど、これからも宜しく頼みたい。
さて、家に帰って、大掃除の続きだ。
それが終わったら、ゆっくりしよう。
ゆっくりとテレビでも見て、ご飯でも食べよう。
ミカンもむいて、食べよう。
ミカンをむいて、ワハハと笑っているうちに
「もうあと10分で来年だ!」とか気付いて、盛り上がろう。
実は東京で年を越すのは、かなり久しぶりだ。
カミさんの実家の大阪だったり
上海だったり、バリ島だったり、台湾だったり。
ゆっくりと、家族を感じるには、いいタイミングなのかもしれない。
そこから見えてくるものが、あるのかもしれない。
カミさんとも結婚してもう、13年目だもんね。
長いなあ。これからも長いんだろうなあ。
ありがたいことだ。
「そろそろゲームのことを語ろうか」の2回目は
月イチくらいでと書いたので、ほんとうはそろそろと思っていたんだけど
バタバタしているうちに年末になってしまった。
大晦日に、というのも、なんだかなあと思うので、来年に。
それでは、みなさん。
よい年をお迎えください。
いろいろ、良いことも、悪いことも
大変なことも、楽しいことも、僕もふくめて
みなさん、それぞれあると思いますが
新年を迎えて、この数日くらいは、笑顔で過ごしましょう。
僕にとって、2008年は、大きな年になると思っています。
来年はプロになって20周年の年なんだよね。
みなさんにとっても、2008年が、良い年でありますように。
このblogを読んでくださっているみなさんの
健康と、素晴らしい日々、有意義な1年をお祈りします。
なんなんだこれは。
もう12月も28日だというのに
仕事納めだというのに
さっぱり、年末の感じがしない。
明日から、29日、30日、31日の、3日でしょう。
今年の残り。
「年末感」が、まったくといっていいほどない。
なんで?
いつもこんな感じだっけ?
これが、あと2日とかあと1日とか
そういう、もうちょっとしたくらいから
ムクムク、わくわくと、湧き出てくるものだっけ?
年末感。
年末の雰囲気が大好きなのに、まったく感じられない。
なんでだろ。
今年は、どこにも旅行しないからかなあ。
それなりにバタバタしているし
メールなんか送っても、「今年はこれが最後かもしれませんが」なんて
書いていたり、書いてみたりしているし
なにより、今日が28日ということを認識しているんだけど
「もう年末だよ。年が終わっちゃうよ。年が明けちゃうよ」
という感じがまったくしない。
年末なんて言ったって、いつもとあまり変わらないわけで
わざわざ区切りを入れているだけで、無意味に近いものなのかもしれないけれど
だからこそ、「年末」というものに興奮する。盛り上がる。
だからこそ、なんだ。
だから、好きなんだ。年末。
しかし、それが、まだ来ない。
いま。
いま、カミさんから電話があった。
いま、渋谷の東急本店にいるという。
恵比寿駅で合流して、一緒に外でメシを食べようという。
そんないつもと変わらない用件。
そんないつもと変わらない言葉なんだけど。
なぜだかわからないけど、その声に、年末を感じた。
年末がやってきた。
やっとやってきた。
うわー、もうあと3日ちょいしかないよー!
盛り上がるなあ。
(昨夜、PARTYに来ていただいたみなさん、ありがとう! めちゃくちゃ楽しかったね)
あれよ、あれよと
忙しい、忙しいと、言ってる間に
前回の更新から一週間も経ってしまいました。
年末はバタバタしますね。やはり。
♪もういくつ寝ると、お正月〜ですよ。
というなか、その前回の更新にありますように
本日、夜の23時より行われるパーティで、DJを致します。
(詳細は前回のエントリーを)
というのが、今夜なんだなあ。早っ。
お忙しい時期とは思いますが
年も終わりに、盛り上がりましょう!
というかたは、ぜひ、ご一緒に盛り上がりましょう。
来ていただけましたら、「blogで見て来たよ」と
おっしゃっていただけると、ありがたいです。
今回、時代に逆行していくようなDJしようかなと。
だんだん現代から、過去のテクノに戻っていくような。
なんじゃそりゃ、という気もしますが
本業DJではございませんため、なにかコンセプトがないと……。
単にモチベーションの問題なのですが。
今年は、YMOも再結成しましたし
そのあたりのサウンドもお好きなかたはぜひ。
もっと過去に戻ってみようと思ってますが。
忘年会の帰りにでも、仕事の帰りにでもぜひ!
2007年最後、一緒に楽しみましょう。
あぁ楽しみだ。
ていうか、来てね!
もうあと1週間となってしまいましたが
12月27日(木曜日)の夜、「DEPARTURE LOUNGE」で
DJをします。
イベント的にも「SERIE-NOIRE」というイベントの
「2007 YEAR-END PARTY」ということで
まあ、忘年パーティぽい役割もございまして
年末も迫るなか、一緒に、楽しんで、騒げたらなと思っています。
いつもは、僕がDJをするPARTYは、誰でもという感じではなく
招待制のようなことが多いですが
こちらのイベントは誰でも入場OKですので、盛り上がりたいかたはぜひ。
DJのリストは僕のほかには
SHOTARO MAEDA、坂崎タケシ、AMIGA
GEISHA DISCO BOYS & SATOSHI OTSUKIとなっております。
12月27日の木曜日、スタートは23時から。
僕のDJは、もうちょっと深い時間からを予定してます。
チャージは1500円とのことです。
「DEPARTURE LOUNGE」の場所は、麻布十番。
下にお店のリンクを貼っておきますので、チェックしてください。
拡大地図を表示
東京都港区麻布十番1-9-2 ユニマット麻布十番ビル7F
JOMOの隣のユニマットビルの7Fです。
「あっ!」という間に年末ですね、しかし。
2007年もいろいろありましたし、いろいろあったことでしょうが
いろいろ忘れて、いろいろ思い出して、朝まで一緒に盛り上がりましょう!
来ていただけましたら、声をかけてくださいまし。
あ……、僕がプレイしているとき以外で。
ラップトップは操作が忙しいのです……。
27日、木曜日の深夜(金曜か)に会いましょう!
ぜひ!
<<ここをクリックすると、DEPARTURE LOUNGEのページにジャンプします>>
まさかのループ。
前回のエントリで
「このままループに入らないことを祈る」と書いたが
夜中寝ていると、吐き気がして起きた。
「ループ?」
と嫌な予感がしつつ、立ってリビングに出ると、気持ちが悪い。
ベッドで横になっていたのが、立ちポーズになって
胃の中の戦争が、本格的になってしまったようだ。
しかし、気持ち悪くて、眠れない。
そのまま、ずっと眠れない。
気持ちが悪くて眠れないなんてことは、初めてだ。
仕方がないので、読書をすることに。
お腹が、ぐるぐる吠える中、2冊読んだ。
1冊目は、内田樹さんの『先生はえらい』。
この本は、「先生はえらいんだぞ」ということを書いているわけではなく
「コミュニケーション論」とか、「学ぶ」ことについて書かれた本。
新書って、ほんと苦手で、それだけはキツかったんだけど、面白かった。
「そうかしら?」と感じてしまう部分も多いんだけど
それ以上に、考えさせられることがあった。
そもそも中高生向けの本なので、文体も易しく、軽いタッチで書かれているので
「ちょっと新しい視点が欲しいなあ」という人はぜひ。
そして、2冊目は、池谷祐二さんの『進化しすぎた脳』。
これは名著ですね。
脳に関する本は多く持っているし、読んでいるので
「改めて発見」というようなことはなかったんだけど、面白かった。
高校生を相手に講義をしたものを、書籍化したものなんだけど
それが成功している。ものすごくわかりやすいし、なにより面白い。
専門的な分野に関しての本は
書き手がよほど力がない限り、本としてつまらないものが多い。
「本としてつまらなくてもいいんだもんね」という声さえ聞こえる。
しかし、講義という形式によって
きっと、その場にいる高校生たちの表情や質問などの反応を通して
上手にライブしていったんだろうと思える内容となっている。
いま思ったんだけど、たまたまこの2冊は
もちろん、大人が読んでも充分に面白いわけだけど
学生に向けた内容となっているね。
なにかのサインだろうか?
我が家の風邪、これ以上、ループしないことを、本気で祈る。
先々週、長男が風邪をひき、その後、下の子が風邪をひいた。
そして、先週の頭は僕が風邪をひいて
とどめに、先週半ばに、カミさんが食中毒。
それで終わったかと思ったら
昨日から長男が再度、高熱を出して倒れた。
このままループに入らないことを祈る。
日曜日は、カミさんの誕生日だったが
それどころではなくなってしまった。
今日は朝から、長男が病院。
下の子にうつってはいけないので
カミさんが長男を病院に連れて行っている間
僕が面倒を見る。
僕には、母親ほどの安心感はまったくないので
子どもの歌のCDを聴かせて、ごまかすしかない。
「ママがいない→寂しい」となってしまうと
泣いて泣いて、もう大変なことになるので
お子様用音楽でうまいこと乗り切る作戦。
同じ親なんだけど、一生懸命笑ったり、声をかけたり
おもちゃで遊んだりしたところで、父親は父親。
それが少し、悲しいんだけど。
そんなことも言ってられないので
カミさんと長男が病院へと、家を出た瞬間から音楽スタート。
♪
ぞ〜ぉさん。
ぞ〜ぉさん。
お〜はなが、ながいのね。
あ〜のね、「かぁさん」も、な〜がいのよ〜。
ぞ〜ぉさん。
ぞ〜ぉさん。
だぁ〜れが、すきなぁの?
あ〜のね、「かぁさん」が、す〜きなのよ〜。
くそっ。
こんなところから、洗脳されてるんじゃん!
新幹線が品川の駅に着く。
多くの人がホームへと降りてくる。
東京駅で降りる人よりも多くなったんじゃないかなあ。
新幹線ホームは、在来線とは離れた場所の地下にあるため
必ず上の階へ移動しなければならず、皆がエスカレーターを使う。
エスカレーターの左側には、普通にエスカレーターを乗る人。
エスカレーターの右側には、エスカレーターを歩いて上る人。
関西エリアではその逆だよね。
「なんだろうなあ、これ?」といつも思う。
いつの間にか、それがあたりまえのルールになってしまった。
たまに、エスカレーターの右側で立ち止まっている人がいると
そこで詰まった、その後ろの人が、イライラしていたりする。
「なんじゃあ、それ」と思う。
結論から言うと、「歩く人は右側」みたいな
そのエスカレーターの、余裕のない自分勝手なルールは、やめるべきだ。
何故、JRは、それをもっと徹底しないのだろう。
もちろん、JRに限らず、他の鉄道会社でも、百貨店でもそうだけど。
そこまで「右は歩く人」みたいになっているのは、鉄道が多いだろう。
推奨はしないけど、絶対にだめとはいわないよ、という感じ。
はっきり「ダメ!」としないから、そんなルールのままになっている。
そこの持ち主である側が、「ダメ!」と徹底するべきだ。
このままでは、いつか近いうちに大きな事故が起きると思っている。
そもそも、エスカレーターは、歩いて上るようにはできていない。
だから、左右の幅が決まっていて、歩くには適していないサイズだ。
歩いている人が、立ち止まっている人をひっかけたりして、倒して
雪崩のように、大きな事故が起きてしまう可能性がある。
そんな大きな事故が起きてから、マスコミなんかで取り上げられて
「エスカレーターを歩くのはよくないよね」という風潮になってから
「じゃあ、歩くのはやめましょう」というのは、ちょっと間抜けすぎる。
そもそも、そこまで急ぐ必要あるのか、と思う。
そんなもん、たった10秒とかの差じゃないか。
長いエスカレーターで、仮に30秒の差があっても、たった30秒じゃないか。
時間に支配されすぎだよ。
余裕がなくなりすぎだよ。
エスカレーターを使っているとき
横で、険しく歩いて上っていく人を見ると、なんか悲しくなってくる。
いくらなんでも、支配されすぎだって。
なにかに、やられちゃいすぎだって。
見失ってないかい?
パブリックなスペースで
ケータイでメールをしながら、歩いている人も多くなった。
人にぶつかりそうになっても、よけもしない。
ずいぶんな世の中になってきちゃったなあ、と思う。
エスカレーターくらい、立ち止まる余裕があってもいいじゃないか。
上に書いたように、事故が起きてからではよくないよ。
エスカレーターを歩いて上るのはやめよう。
子どもが見て、そういうふうに生きるものだと思って
どんどん、そういう世の中になってしまう。
少なくとも、僕らは子どもじゃないんだから
自分で考えて、自分でしっかり判断していこうよ。
どんな世の中にしたい?
僕はもっと、余裕のある、世の中が好きだなあ。
カミさんが、食中毒になった。
ノロウィルスかもしれないが、未だ不明。
最初は、ただの食べ過ぎだと思っていた。
一昨日は出張に行く日だった。
朝、家を出るとき、「気持ちが悪い」と言っていた。
前日の夕食の後に、1人でクリームパンを食べていたのを覚えていたので
出る仕度をしながら、「だから、食べ過ぎだって」と伝えると
「実はその後、パン2コも食べたねん」という声が聞こえたので
相手にするのをやめて、家を出た。
すると、出張先のミーティング中にケータイが鳴る。
何度も鳴るので、出ると「かなり調子が悪い」と。
動けないので、往診に来ていただいて、薬を出してもらったと。
ミーティング後、慌てて、家に帰ると苦しそうな姿。
安心したのか、しばらくすると、少しは取り戻した様子。
下の子をお風呂に入れたりと手伝えることを手伝った。
夜寝る前、体重計に乗って
「うわ痩せてる! 10代の頃以来の記録!」とか言ってたので
「まぁ、もう大丈夫かな」と思っていた。
しかし、朝になっても、回復していない。
夜中に、下の子がなんども泣いてしまうから、休めないのも大きい。
これは自分が必要だなあと判断し、仕事を休むことに。
久しぶりに、長男に朝食を作る。
といっても、ソーセージと目玉焼きを焼いて
神宗のちりめん山椒(おいしいよ)を、ご飯に乗せるだけだけど。
カミさんは寝室。
毎日、楽しみにしている『ちりとてちん』も見ずに
寝込んでいるから、「あぁこれは相当だなあ」と思う。
ところで、『ちりとてちん』、恋愛ドラマの流れになってきているのが残念。
早く、元の明るく楽しく元気なドラマに戻ってほしい。
その後、カミさんは病院へ。点滴を打つ。
カミさんが病院に行っている間、下の子の面倒を見る。
父親と判断もつかない男と二人でいても、かなり退屈そうなので
だっこヒモを付けて、1時間くらいお散歩。
カーブミラーに映る、自らのだっこヒモ姿に笑う。
近所をぶらぶらと歩いて、書店に行って、CD屋に行って
コーヒー屋に行って、JRの陸橋から電車を見た。
まだ生まれて半年ちょいだから、「でんちゃ、でんちゃ〜」とか
そういう喜びはまったくないが、大きいものがやってきて去っていくのと
「ガタンガタン」という大きな音に反応して、喜んでいる様子。
赤ちゃんの耳は、まだノイズキャンセル機能が弱いんだろうなあ。
ビニールの袋の音とか、車の音に対しても、かなり敏感だ。
陸橋の上で、だっこヒモの姿。
だっこヒモに、赤ちゃんと、上下黒のスーツの男。
たまに通りかかる人たちが、複雑な表情で通り過ぎていく。
なんとも言いようのない雰囲気なのだろう。
山手線がやってきて、湘南新宿ラインがやってきて
成田エクスプレスがやってくる。
もう半年くらいしたら、もっと大喜びするようになって
もう1年くらいしたら、列車の種類に反応するようになるんだろうなあ。
生まれてもう半年も経ったし、いろんなことがあっという間だなあ。
あっという間に大きくなるんだろうなあ。
家に戻ると、あっという間に大きくなった、長男が帰ってくる。
その後、病院から、あっという間に結婚して13年になった
カミさんも帰ってきて、いつもの家族になる。
あっという間に何年か経ったとき
こういう、ちょっとした出来事や時間が
「そんなこともあったね」と、大切な1ページになるんだろうなあ。
JR新幹線の改札では
いつも大声が飛び交っている。
「乗車券をお取りくださいー!」
「切符を忘れずにー!」
「切符が出てきますのでー!」
これ、どういうことかというと
新幹線の改札は、そのまま出口になっているところもあるが
在来線への乗り換えのための、新幹線用の改札もある。
というか、そっちの改札のほうが多く存在する。
在来線に乗り換えるため、でなくても
一度、新幹線用の改札を出てから(在来線に乗らずに)
出口への改札を出て行く、という順路もある。
新幹線の切符は
「特急券+指定席券+乗車券」がセットで1枚になっているか
「特急券+指定席券」と「乗車券」の2枚になっている。
だから、出口としての改札ではなく、新幹線用の改札を出る場合は
改札に切符を入れるんだけど、再度、取ることが必要になる。
「特急券+指定席券+乗車券」がセットになっている場合は、その切符を。
「特急券+指定席券」と「乗車券」の2枚の場合は、「乗車券」のほうを。
在来線に乗り換えるにしても、そのまま出るにしても
出口に繋がる改札で、乗車券(が含まれている)、切符を使うからだ。
ま、そんなこと知ってる人も多いと思うが、知らない人のために一応……。
そんなことのおかげで、上に書いたように
新幹線の改札の横では、JR職員が大声でずーっと
「乗車券をお取りくださーい!」と叫ぶことになる。
先日なんて、名古屋駅の改札では
ヒステリックに、声を枯らして叫んでいる職員がいた。
あの人は、1日、ずーっと、あぁやっているんだろうか、と思う。
1日どころか、毎日だったら、かわいそうだなあと思う。
乗車券を取り忘れてしまう人が多いのだろう。
だって、出口への改札の場合は、「そのまま」なんだから。
在来線に多く乗る人の場合は、そのことのほうが多いわけだから。
ここが、取り忘れを生み出しちゃっているわけだよね。
さて、本題。
僕は、ゲームの世界を離れてから
「インターフェイスデザイン」の仕事をやっている。
最近は、やってないけれど。
「それってどういう仕事ですか?」と訊かれることも多いので
この新幹線用改札の件が、いい素材というか、機会だなあと思った。
簡単にいえば、「こういう問題の解決」が、その仕事だ。
もっとも、それだけじゃ面白くないし
ほかにも出来る人もいるだろうから
「気持ちよさ」を追求したり、「楽しさ」を生み出したりしている。
もし、JRから実際に仕事の依頼があって
「こういう問題があるんだけど、解決してほしい」と言われれば
それが仕事となる。
直接、インターフェイスの問題解決ばかりが仕事ではなく
もっと人が集まるようにしたいとか、もっと売上を伸ばしたいとか。
ま、それも問題解決ではあるんだけど
そういうことを、「インターフェイスデザイン」で解決するのが仕事だ。
さて。
ここで挙げた、新幹線改札の問題の場合
なにをどうすれば、よい解決となるでしょう?
解決したいのは、JR職員の喉が枯れる問題ではなくて
切符の取り忘れが出てしまう問題。
単に「乗車券を忘れずに」と、改札の横に注意書きを書くとか
「乗車券が出ます」と、改札機が音声で伝えるとか
そういうのじゃ、あまりうまくないですよ。
答えはありません。
言い方を変えれば、答えはいっぱいあるでしょう。
仕事の場合、予算とか、改変できる規模とかで変わりますし。
改札の工夫なのか、切符の工夫なのか、そのどちらもなのか。
或いは、二重改札の仕組みに問題があるのか。
いや、そこまで大きく変える必要もなさそうだ。
なにかしらいい答えを思いついた人は
インターフェイスデザインの仕事ができますね。
あ、答えはメールでいりませんよ。
だって、答えはいっぱいあるのです。
いい答えを……できればいくつも思いつくのが、大事なのです。
カントの『永遠平和のために』を読む。
以前に読んだときは、正直、そこまで印象に残らなかったので
現在は、それだけ、平和に対して考える状況になったということだ。
世界も変わってきたし、自分も変わってきたのだろう。
『純粋理性批判』など、批判シリーズをを書き終えたカントが
本書『永遠平和のために』を著したのは、なんと71歳になったとき。
なにより、この極めて具体的で、モダンで、わかりやすい書が
書かれてもう、210年以上経っているということに驚いてしまう。
まるで、いま、この世界に対して、投げかけている書籍のようだ。
「平和とは、すべての敵意がなくなった状態である」とカントは言う。
「いかなる国も、他の国に対して、武力で干渉してはいけない」とカントは言う。
「紛争のために、国際を発行してはならない」とカントは言う。
素晴らしい。
まるでいまの世の中を見て、書いているかのように思える言葉ばかりだ。
世界中の国のリーダーが、いま読むべき本だろう。
どのページの、どの言葉を読んでも、深く突き刺さり、考えさせられる。
完全な平和が訪れる、というのは難しい。
この地球という星の上に、暮らしも宗教も言語も異なる
たくさんの人間が住んでいるからだ。
難しいからこそ、平和に対して、永遠に努力をしなければならない。
カントは言う。
「隣合った人々が平和に暮らしているのは
人間にとってじつは「自然な状態」ではない。
戦争状態、つまり敵意がむき出しというのではないが
いつも敵意で脅かされているのが「自然な状態」である。
だからこそ、平和状態を根づかせなくてはならない」
国際連合の設立に繋がり、日本国憲法にも反映されたという、この本。
いま、ぜひ、ご一読を。
息子。
下の息子。
生まれてまだ半年。
だっこしたり、遊んだり
目の前で、ニコニコ、わーん、あーあー言ってるのを見て
「誰なんだ、お前?」とよく思う。
実際によく言う。
「誰なんだ? お前?」
上の息子は、一緒に暮らしてもう9年以上だし
それなりに、いろいろとコミュニケーションもしたし
なんとなく、人格というか個性もわかってきて
「こいつは、こういうやつだ」というのがよくわかる。
自分の息子なんだ、というのも、確実に思う。
しかし、この下の息子は、なんなんだ。
一緒に暮らしているけど、お前、なんなんだ。
笑う。
泣く。
回転して床をごろりん、ごろりん。
指をしゃぶる。
いつのまにか排泄している。
あれこれ触りたがる。
また、笑う。
また、泣く。
カミさんは、この子を産んだ。
だから、ずいぶん、感覚が違うだろう。
自分が産んだ子なんだから。
だけど、僕は産んでいない。
立ち会ったから、カミさんが産んだ子というのはわかるけど
僕との関係は、いったいなんなんだろう。
遺伝子がどう、とか、感覚的じゃなさすぎる。
カミさんのことを好き、が10とすれば
僕のことを好き、なんて、まだ1もないように思う。
だけど、僕のことをじっと見つめる。
笑顔でお腹を触ると、笑ってくれる。
笑ってくれたと喜ぶと、泣きだす。
「なんで泣くの?」と、思い、抱いてやる。
まだ、泣き続ける。
仕方がないので、気分転換に、抱いたまま外に出る。
外に出ると刺激が多いからか、気持ちが解放するからか、泣きやむ。
エレベーターに乗って、家に帰る。
エレベーターの鏡に、自分と、自分に抱かれた息子が映っている。
鏡を通して、僕を見つめている。
「誰なんだ? お前?」
ほんとうに、ようわからん。