第四十六回
【願かけ?】はるんちゃんとおまんじゅうの巻【欲かき?】

はるん  :

はぁあ〜〜〜。なんだかため息が出て、でもなんかすごく落ち着いた気分。いままで自分のことを思うとモヤモヤしていた疑問点みたいなものが、ルリーさんの一言でなんかすっきりとしたような気持ちですぅ。
♪(o  ̄∇ ̄)/

ミッシェル:

人間ほど複雑にできた生物は地球上に存在しないわけですから。
しかもその歴史を通じて様々な人びとが数多くの国で文明と文化を築いて今日の繁栄を迎えている。そこには素晴らしい物質文明が繰り広げられていることは確かなのですが、反面、古来から美徳とされていた精神文化や芸術的な意識が失われていっていますね。

その歪のようなものが、やはり広く言うと地球精神圏の中でオリのように滞り、地球的規模のチューブを詰まらせていっているのではありませんか?

体脱   :

その詰まりの部分に人びとが引っかかって、巻き込まれ、自分ひとりだけ、誰にも相談できない現代社会の中で、不安と恐怖に駆られて暗く沈み込んでいってしまうことがある。

はるん  :

私たちはこの3,5次元の「まるの日カフェ」にいるわけだからまだいいんですけど、毎日毎日を忙しく、必死になって生き延びている地上世界の皆さんは、一度そんな歪の中に巻き込まれてしまうと、パニックになってしまいますよねー。

ミッシェル:

勿論、自分にもそのような歪が生まれていることに気がつく暇もなく、この男性性優勢の社会の中では、ひとびとはみな何ものかになるために競争をすることを強いられていくんですね。それがどのようなことなのか、ということよりも、そのような時代にいま生まれてきているのです。

たとえ片田舎の田園風景の中で生活していても逃れられるものではありません。あるいは、大都会の中でどのように意識的に生きていても、その影響を受けないひとはいません。しかし、そのような苦悩の状態が人々の生きる本当の姿ではないことを、誰かが伝えなければいけませんよね。

ルリー  :

まずは自分を愛することなのです。さらに分かりやすく言えばご自身を「大切にする」ことです。

人に優しくするために自分が我慢をするということは、一見「奉仕する」という美しい行為のように見えるかもしれません。
しかし、それが「自己を犠牲にする」という考えに基づいたものであれば、それは危険をはらむ行為なのです。

自分に我慢をするというのは、自分を大切にしていないことと同じですから、自分を愛することが出来ていないということ。
そのような状態で人に奉仕するということは、そこに生ずる矛盾の種を、結局どこかに植え込んでしまうことにつながっていくのです。
河にのって進む船が自分だとしたら、その船を大切にしていないのです。

船が傷んだまま、愛でた果実を積んでいっても、いつかは沈んでしまうことでしょう。沈むことがなかったとしても、いずれは河の流れの途中で、うまく流れ行かないようになってしまうものなのですよ。

体脱   :

個人の生む歪と、惑星規模に生じる、人びとやこの地球全体の歪みの中で、私利私欲に捕らわれず、自分を大切に生きることかぁ。それが「善」であるってことなのかなぁ。

はるん  :

なに急にお坊さんみたいなこと言ってるんですか体脱さんっ! 善人になるってことじゃなくって、もっと深い話なんです−

ルリー  :

自分が思う、理想とする、善い人となる。ということならいいのですよ。そうではなくて、人の評価を得たり、人生で自分が相手より上に立つ目的ために「善人」を行うのであれば、それは同様に河の流れをうまく進めなくなってしまう要因になってしまうでしょう。それではいけませんね。
そしてその「善行」というものに「自己の犠牲」があってはならないのです。

はるん  :

それじゃあ、願いごとを叶えるために「神様、この願い事が叶うまで、わたしは、自分が一番好きなおまんじゅうを食べることをやめます」っていうのはどうなんだろう?

体脱   :

はるんちゃん、それは、ふかい話だね〜

ミッシェル:

それはね、そのおまんじゅうを食べられないことにこだわらなければいいんだよ。あと、おまんじゅうを食べられる日を期待しすぎなければね。

体脱   :

例えば毎日お酒を飲んでいた僕が、病気以降4ヶ月もお酒を飲んでないし、飲みたくなくなってるみたいに、その世界線を変えちゃえばいいんじゃないの?

はるん  :

その話とはぜんっぜん、違うでしょ! 体脱さん。わたしはおまんじゅうが好きなままでいいんですっ!

ルリー  :

それも分かりやすくお話しますね。おまんじゅうを食べないで願い事を叶えるということに素直であれば、それは叶うもの。
素直であることによって「おまんじゅうを食べない」ということ自体がすでに「善行」になっているからですよ。

そうではなくて、素直ではない場合。
例えばその願いごとに対する欲のために「おまんじゅうを食べない」ということは、自分が我慢しているという状態そのものが、そこに歪を生んでしまうのです。ミッシェルがいま言った「おまんじゅうを食べられる日を期待しすぎている」姿ですね。
また、その我慢している状態を気にしすぎてもいけないのです。
なぜならその状態でその行為が、すでに囚われとなってしまっているからです。

いずれにしろ願いごとに対して「素直」になっていることが出来なければ、どこかでそれに対して反応する何かが出てくることになり、願いを実現することは出来なくなってしまうです。

はるん  :

あぁよかった。おまんじゅう断ちはOKってことですね! でもお願いごとに「素直になる」ってことも難しい感じだなぁ。

体脱   :

ほら、目の前のことに集中して、楽しみながら全力で取り組むって、七福さんの教えにあったよね。

はるん  :

あ〜? そうですねっ! 過去に囚われないで未来を気遣わないで、七福さんたちの教えを参考に! って、なんかやっぱり、本の宣伝みたいになっちゃうなぁ−、ん〜もうっ、体脱さんったら、そんなに浅いことじゃなくって、もっと深い話なんです〜これはっ!( ̄へ  ̄ 凸

体脱   :

深い話? あ、ふかい話か。そ、そうだよね〜はるんちゃん。?

<8月4日(木)に続く>

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