enoblogbanner2011.png
January 25, 2006
鮨かねさか 赤坂店

toro.jpg ebi.jpg

それが、良い寿司かどうかは
「その寿司1カンが、1つの宇宙であるかどうか」である。

でなければ、寿司なんてのは邪魔くさい。
魚を刺身で食べればいいのである。

昔だったら、メシ(シャリ)で腹を膨らませる必要があったかもしれない。
いや、それ以前に、昔は寿司はファーストフードだったわけだ。
作り手も、1つの宇宙なんて創造してやしない。

だが、近代寿司の決めては、宇宙が存在するか否かである。

例えば、鮪の赤身がある。
それを寿司にする。

赤身は鋭い包丁で切られ、シャリが握られる。
この時、赤身とシャリのバランス感が大切である。
ちょいとシャリが小さいくらいのバランスがよい。
全体としては「小ぶりな握りですねえ」というサイズがよい。

さて、そのままでは、ただの「赤身の寿司1カン」である。
まだ宇宙ではない。
が、ある種の「神秘性」を感じる美しさを持っていることは大切である。

寿司1カンを口に入れることで、シャリがホロっとほどける。
シャリは映画を上映するためのスクリーンのような存在である。
シャリの酢が、口の中を爽やかにし、世界観のベースができあがる。
そこに赤身の味。抜群の旨味と、キリっと立った鉄分のバランス。
それをよりクリアにする、山葵の香りと刺激。
その全体をまとめていく醤油の味。

それらが混じり合った時、宇宙ができあがる。
それが良い寿司である。
というか、それが現在においては、寿司の存在価値である。
繰り返しになるが、それでないなら、刺身で食べたほうがうまい。

そんな、宇宙を描くことのできる、寿司に出会うことが嬉しい。
そんな、寿司を提供する、寿司屋に出会うことは楽しい。

「鮨かねさか 赤坂店」は、そんな寿司屋の1つだ。

ika.jpg otoro.jpg

口に放り込んだらすぐにほどけるほどの、やさしい握り。
しかし、口に入れる前には、決して崩れることはない。

魔法がかけられたように、外側はしっかりと握られているが
その内側は、空気が充分に含まれた、ゆったりとした状態。
それが、宇宙が創造できるか、否かの差ではないかと思っている。

なんどもしつこいようだが、それができない寿司屋はいらない。
というか、それができない寿司屋は、すでにそれを放棄しているのがわかる。
延々と続くつまみの類。
握りはそこが寿司屋であるための証拠みたいなものでしかない。
つまみが7割、握りが3割。そんなバランス。
そんな店は寿司屋をやめればいい。
「寿司屋にしちゃ、料理もうまい」なんていうのは、自信のなさの表れだ。
もちろん、それは分量の問題ではない。

「鮨かねさか 赤坂店」は、それが少なくとも半々のバランスの店である。
つまみは互いの様子見だ。
キャッチボールをしながら、調子を上げられていく。
DJがホールを暖め、いよいよメインのライブが始まる。
握りがスタートすると、そこからが本番である。
そんなバランス。

つまみが一通り終わると、もうちょいつまみを続けるか
握りをスタートするかどうかを聞かれる。

そこで「じゃ、握り、始めて」と答えると
職人の目が一瞬変わり、店内の気が変わり、ちょっとした緊張感が満ちていく。
客席6、対、職人1、の勝負の世界。
それができるハコの大きさは、とても重要である。

握りがスタートする。
その時点からリズムが変わる店じゃなければだめだ。
客と職人が、キャッチボールの終了を認識するような店がいい。
寿司屋の職人は「握り」が好きでなければいけない。

僕の知人にフランス料理のシェフがいるが
まだ出会った頃に、ワインについて訪ねた時
「ほんとはワインなんて…」という答えが帰ってきたので、僕は彼を信用するようになった。
「料理が作りてぇシェフ」なわけだ。そうじゃなきゃいけない。
本音では、そうであるべきだ。

「うまい寿司で勝負してぇ」というのをビンビン感じる。
だが、それを前面には出さない。
誠実なサービサーであるような面をしながら、いつも静かに勝負の開始の準備をしている。

manaita.jpg

常に決して気は抜かない。
それが「鮨かねさか 赤坂店」の粋なところである。

Posted by eno at January 25, 2006 06:01 AM | TrackBack