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April 22, 2010
ツイッター。

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つぶやくこと。
いつもの世界から、もうひとつの世界へ。

つぶやくこと。
たった1人のあなたから、果てしなく繋がる向こうへ。


あなたが、いまを伝える。
はじめて感じた、月明かりの静けさを、言葉に変えて。

あなたが、いまを伝える。
なぜか、ふと突然、零れ落ちた涙を、言葉で包んで。


たくさんの気持ちを、小さな言葉の箱につめ込んでいく。

ときには優しく丁寧に。ときには思うまま乱暴に。

つめこまれたあなたのいまが、誰かのいまと出会う。


くじら雲が、青い空で泳ぐ。

るすばん電話から、懐かしい声が聞こえる。

もぎたての桃の、身の締まった果実の食感。

うれしさのあまり、破り捨てた包装紙。


ひとつひとつの出来事は、あなたの元を離れると
とたんに、誰かの元へと届けられ
つめこまれた思いとともに、その人の時間へ広がっていく。

のびやかな歌声のように、それはどこまでも響き渡り
せえの、で走り出した夏の日のように、いつまでも輝き続ける。


かたちを持った、あなたのいま。

いまが創り出す、あなたのもうひとつの世界。

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Posted by eno at 12:02 AM
April 21, 2010
ぽーん。

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ぽーんと飛んでいく。

ぽーんと跳んでいく。


なんというか、そういう感覚が
最近、ないなあと、ふと思うことがある。


雨あがりの
空や雲が映る水たまりを
ぽーんと、跳び越える感じ。

草むらに寝転がったままで
意識だけが、青空に飛んでいく感じ。


赤いゴムまりが、弾んで小さくなるような。
紙飛行機が、すっと、小さくなっていくような。


「軽さ」と書いてしまうと
悪い言葉のようにも、響いてしまうから難しいんだけど
「ぽーん」という感じが、なくなってしまったように思う。


なにをするにも、少し考えているように思う。
例え、それが僅かであっても、そこに「少し」が存在する。

もちろん、人生、いろいろなことを経験しているし
背負っているものも、いつの間にか増えているのだろう。

だから、そこに「少し」が存在してしまう。

しかし、その「少し」があるおかげで
生み出せないものも、多くあるように思うのだ。


映画のワンシーン。
動きだしの、頭の何コマかを削ってしまったような
その勢い、軽さ、透明感。

そんな、身体的なリズムが、生み出す未来
というものに、いつの間にか、辿り着けていないような気がする。
辿り着けなくなってしまったような気がする。


しかし、それを意識してしまっても
「少し」が発生してしまうから
もっと、根本から変えていかないといけないのだろう。


まだ、守るのは、早いように思う。

まだ、止まるのは、早いように思う。


ぽーんと、飛び出して、新しい景色を見てみたい。


ぽーん。

Posted by eno at 12:10 AM
April 20, 2010
キンドルは飛んでいく「な」。

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境界がなくなっていく。

映画なのか、ゲームなのか。
ゲームなのか、書籍なのか。
書籍なのか、音楽なのか。
音楽なのか、映画なのか。

多くのものの境界が曖昧になってきた。


いや、もちろん、そういう混ざったものとか
曖昧なものではないものも、僕は好きなのだ。

好きだ、というか、大切にしたいと思っている。
「既存のフォーマットの良さ・強さ」というものもあるからだ。

変化もいいけれど、進化も大事だよ、とよく思う。


例えば「映画」はずっとこれからも、映画であってほしいと思う。

もっと言えば「映画館」という空間は、なくならないでほしいと願う。

あれは、「2時間、あの場所で固定」されるからよいのだ。
途中で、電話がかかってくることもないし、トイレも行けない。
やりたくても一時停止もできないし、ちょっと巻き戻しなんて不可能だ。

『AVATAR』を始めとして、3Dの映画が増えてきている。
「まるでそこにいる」ような「体験」が映画で加速するだろう。

あれは、変化でなく、進化だと僕は思っている。
『AVATAR』は間違いなく「映画」である。


「電子書籍」という言葉を多く聞くようになった。

「キンドル(KINDLE)」というデバイス、サービスのことを
いちどは耳にしたことがある、という人も多いと思う。

そして、「iPad」でも「iBooks」というサービスが始まった。


「キンドル」も「iPad」も「電子書籍」という上で
同時に語られることが多いが、この2つはさっぱり違うものだ。


「キンドル」は「書籍を電子で」。
「iPad」は「電子で書籍を」。


「書籍」を純粋に、紙じゃない媒体で読もうと思ったら
「キンドル」でよいだろう、と思う。
というか、それがキンドルの存在意義だ。

まず、デバイスの重さがぜんぜん異なる。
キンドル300グラムに対して、iPadはその倍以上。
本を読むように片手で、というわけにはiPadはいかない。
また、iPadはバックライトだから、外で読むのは厳しいだろう。
キンドルなら夏のプールサイドで読むこともできる。
そして、書籍の品揃えも(米国の話)、10倍くらい違う。


だから、「従来の書籍」を楽しもうというなら「キンドル」でよい。
小説など、いわゆる「書籍」を楽しむ端末だ。

というか、「キンドル」は、その方向で、どんどん進化してほしい。
近い未来には、ペラペラで軽い「厚紙だろこれ?」というようなものが
「キンドル」という名前で呼ばれていてほしいのだ。


では、一方「iPadは?」、というと
そもそも、iPadは、電子書籍の専用端末ではない。
メールも、ウェブも、ゲームもできる端末だ。
もちろん音楽も聴けるし、プレゼン書類を作ることだってできる。

であるから、いわゆる「書籍」に閉じてしまうと
「書籍を楽しむのに最高の端末」というわけではない。

iPadが電子書籍という分野で爆発するには
「従来の書籍」=「紙」では実現できない表現を持った
新しいエンターテインメントがどれだけ出てくるか?
がキイだと思っている。
(一応、お伝えしておくと「キンドル」も、従来の書籍と
 同じことしかできない、というわけではない)


最初に書いたような「境界が曖昧な」
従来の枠組みからは飛び出した「新しい書籍」の
キラーコンテンツがいくつか登場して、初めて
電子書籍としての「iPad」は、高く評価されるだろう。

僕は、それには、「大きな変化」は必要ないと思っている。
「書籍をもっと楽しむ」ための、ちょっとしたアイデア。
もしかしたら「雑誌」や「絵本」や「マンガ」のようなものが
枠組みとして変化しやすいし、ターゲットも合っているのかもしれない。
「小説」にしても、エンターテインメント性が高いもの
例えば、推理小説なんて、多くの遊びが取り入れられると思う。


新しいデバイスが登場すると
「境界が曖昧なもの」が生まれてくる。

任天堂のWiiも「WiiFit」という、体重計なのか
健康器具なのか、ゲームなのか、コミュニケーションツールなのか
なんだかわからない、「WiiFit」という新しい体験が生まれ、ヒットした。

だからといって、当たり前のことだけど
従来の体重計や、健康器具がなくなる、というわけではない。


そんなことから、実は、僕は「キンドルの未来」を楽しみにしている。
楽しみにしている、というか、心配もしている。

iPadが普及して、「新しいエンターテインメント電子書籍」が登場し
それらがヒットすることで、キンドルは「立ち位置」を見失わないだろうか。
「立ち位置」を間違わないだろうか。

キンドルは徹底的に、「従来の書籍の電子版」を目指してほしいのだ。


もっと手軽に、もっといつでも、もっとどこでも
もっと安く、もっと薄く、もっと軽く、もっと読みやすく。

それらが実現できて初めて、「+α」の要素を加えてほしい。
いや、それらが実現できても「従来の書籍を楽しむ」ことに
マイナスになるなら......例えば重くなっちゃうとかは、絶対にやめてほしい。


キンドルは立ち位置を見失わないだろうか。

iPadにつられて、間違った方向へいかないだろうか。


「キンドルは飛んでいくな」と、僕は願っている。


サイモンとガーファンクルの歌で
「コンドルは飛んでいく」というヒットソングがある。

こういう歌詞だ。


I'd rather be a sparrow than a snail.

Yes, I would.

If I only could,

I surely would.


「カタツムリになるより、スズメになりたい」と歌っている。

弾圧された社会、時代背景を映し出した歌詞だ。


しかし、キンドルよ、お前は「カタツムリ」でいい。

ゆっくりでいいから、立ち位置を見失わずに、進んでいってほしいのだ。


キンドルは飛んでいく「な」。

Posted by eno at 02:54 AM
April 19, 2010
爽快なドタキャン

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iPadの日本国内発売が5月末になった。

日本国内というか、米国以外の発売が一気に延びた。


延びた?

......延びた?

ほんとに「延びた」のだろうか。


実は「最初から5月末だった」、なんてことはないだろうか?

考えすぎ?


iPad、日本国内の発売は、当初は、4月下旬の予定だった。

24日とか、28日とか、いろんな説があったけれど
いずれにせよ、「そろそろ出る」くらいのタイミングだった。

それが、突然、「やっぱり延期」となったのである。


延期の発表があったのは、先週の14日のことだから
仮に「4月末」だったとしても、約2週間前の発売延期。
どうだろう。ぎりぎりすぎやしないだろうか。


延期の理由は「米国で発売(4月3日)して以来
予想を大幅に上回る売れ行きで供給が追いつかないため」とのこと。

大切な自国のマーケットを優先させたいから、他の国の人たちは
ちょっと待っててくれ、ということだ。

結果、どうなったか。


少なくとも、「だったらイラネ」となった人は少ないだろう。
僕には、より「欲しい!」という声が多くなったように感じる。

微妙で絶妙な、「1ヶ月延ばし」というスケジュールは
プラスには働けど、マイナスとはならない。
いや、ここから発売までの時間を考えると、かなりプラスになったように思えてしまう。


僕は、今日までなんどか、iPadを見た。触った。

米国で発売されたものを、自分で買いに行ったり
誰かに買ってきてもらったり、みんなでまとめ買いをしたりして
すでに持っている人は、それなりにいたりする。
(電波法の問題もあるんだけど、それは置いといて)

そんな彼ら(男とは限らないけど)の行動は
「自発的なマーケティング活動」となる。
放っておいても、どんどん宣伝してくれるのだ。


僕が見たように、多くの「先に手に入れた人たち」は
いろんな人に見せてまわるだろう。
いろんな人に触らせるだろう。

そして、blogに書いたり、Twitterでツイートしたり
Ustreamで流してみたり、あちこちで「勝手に」宣伝してくれる。

そんなことくらい、アップルという会社は
当然「見えていただろう」と僕は、思う。


いやもしかしたら、ほんとに、米国で発売してみて
あまりの反響があって、「海外へのラインを国内に回さなければ!」
なんて、取締役会があったりして、決まったのかもしれない。

スティーブ・ジョブズが、涙を流しながら
「海外で待っている家族(ファン)には、ほんとうに申しわけないが......
 ここは我慢してもらおう。残念だが仕方がない!」
なんて、机を叩いて、役員を説得したのかもしれない。
机の上に置いてあった、コーヒーがこぼれたかもしれない。


しかし、少なくとも、このタイミングで「延期の判断」は
あまりにもぎりぎりだと思うのだ。

発売直前か、発売直後か
ほんとに「最初から5月末だった」のかは別として
いくらなんでも、もっと早く決まっていただろう。

しかし「だいたい1ヶ月先」という、「絶妙な延期」を彼らは演じた。

プラスとマイナスをバランス計って
「もうここでなにかしらのアナウンスがないとおかしい」という
ぎりぎりのタイミングで「延期を発表」した、わけだ。


いま思えば、「発売まで2週間くらい」という時点で
iPadの価格(日本国内での)すら決まってなかったのって
ちょっと、いくらなんでもおかしな状態だよなあと思う。


日本国内では、多くの会社が、iPadの発売に合わせようと
iPad用のアプリケーションを開発していた。

電通は、日本国内の20社以上の雑誌を集めた
「マガストア」なるiPad用の電子雑誌の配信を準備していた。

そして、様々な量販店が、iPadの発売に合わせた
大規模な販促キャンペーンを計画していた。


これら、「作る人」も「まとめる人」も「売る人」も
そしてなにより「買おうとしている人」も、みんな合わせて
「ドチューーン!!」とぶっ飛んだ。


みんな仲良く「ドチューーン!!」とぶっ飛んだ。


それが、先週のことである。


なんと『爽快なドタキャン』であろうか。


なんども言うが、ほんとに「ぎりぎりの決断」だったのかもしれない。

しかし、あまりにも......と僕は考えてしまう。


しかし、僕は買うだろう。

iPadを来月末に買うだろう。


そう、僕らは、もう小鳥なのだ。

巣で、親鳥からの餌を「チュンチュン」と待つ、小鳥なのだ。


「♪小鳥はとっても歌が好き〜」という歌がある。

だけど、小鳥はほんとは歌なんて歌っていないのだ。

親鳥を待っているのだ。餌をねだって待っているのだ。

それを「歌が好き」なんて、言われてはたまらない。


だから、僕は、声を大にして叫ぶ!


いやぁ、iPad、楽しみだなあ。(-:

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ヨシナガさんと一緒にやっているトークライブ
飯野賢治とヨシナガの 「気になること。5」
いよいよ、5月1日(土曜日)と迫ってきました!
もうちょっとです。

チケットは発売中ですので(残り僅かです)
ぜひ、いらしてくださいませ。

チケットなどの詳細は下記ページで。

<<ここをクリックするとチケット詳細のページにジャンプします>>


5月1日に会いましょう!

お楽しみに。

Posted by eno at 02:35 AM
April 16, 2010
『素直になれなくて』

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昨日、久しぶりにテレビドラマを観た。
Twitter(ツイッター)を使ったドラマ、ということだったので。

フジテレビの『素直になれなくて』。


ほんと、テレビドラマを観るのは何年ぶりだろう。

ちなみに、テレビドラマが嫌いという理由で観てなかったわけではない。
ここ最近、かなりテレビから遠ざかっているというのが、なにより大きいが
テレビドラマというものは、観ると面白いことも多く
また次の回、また次の回、と、続きが気になって
観ないわけにはいかなくなってしまうからだ。
欠かさず録画してまで観るのは、いま「モヤモヤさまぁ〜ず2」だけで充分なのだ。


Twitterを使ったドラマ、といってもTwitterが絡むのはほんのちょっとだった。
まあ、あまりにも少なすぎるように思うが、これは仕方がない。
Twitterを知らない人が見て、嫌悪感や疎外感を感じてしまっては
テレビドラマというマスメディアではうまくいかないだろうから。
メールを使った「(ハル)」や、「ユー・ガット・メール」とは分母が異なる。

とはいえ、ヘタくそだなあとは思った。
Twitterを知らない人には、まったく悪い印象を与えず=ノイズ
Twitterをやってる人には、ズンズン刺さるネタ、というのは作れるからだ。

例えば、海外ドラマなんかだと、そういうネタの入れ方が上手だったりする。
専門用語でもいいし、ありがちな状況、というのでもいい。
わかりやすく言えば、簡単な「あるあるネタ」を、ちょろちょろっと入れればよいのだ。
ちょっとした台詞1つ、ちょっとした仕草1つで、上手い小ネタを入れれば
Twitterユーザーを味方に付けることができただろう。

例えば「またTwitter、繋がらねぇよ...」っていう一言があるだけでもよかった。
Twitterを知らない人は、ネットが繋がらないとか、ケータイの電波のことだと思うだろうし
Twitterをやってる人は、自分の経験をダブらせて笑うだろう。
カフェの名前が「クジラカフェ」とかでもいいんだけどね。

さらにもっとうまくやれば、Twitterユーザーにはビンビン響きつつも
Twitterはやってなくても、mixiはやってるとか
iPhoneは持っているとか「想像がつく人」を「ニヤっ」とさせることもできるはずだ。
それなら分母ももっと多いし、それが今回のターゲットなのではないだろうか。
例えば、主人公の女性がカフェなんかで、iPhoneの電源をどうにか確保しようと
きょろきょろ探しまくってるシーンを、フレームの端に入れるだけでも
リアリティが出て面白いのになあと思うのだ。


こんなことは、仮に脚本家が、Twitterについて勉強不足であっても
誰かブレーンが付けば、簡単にできることのように思う。
問題は、そういう意識がプロとして足りないのでは? と思うことだ。

Twitterの面白さや、その世界をパッと理解するのは難しいだろうから
ドラマの脚本の依頼があってからでは間に合わないかもしれない。
だけど、そういう意識が大切なんじゃないかと思う。

Twitterに限らず、わざわざ、ファンがいるところ
それが生活の一部になっている人がいるもの、を借りてくるのだから
ある種の礼儀とか、挨拶、マナーみたいなものと言ってもいいかもしれない。

例えば、僕がフィギュアスケートをまったく詳しくもないのに
「話題になっているから」という理由だけで
フィギュアスケート選手の日常を描く小説を書いてしまうようなものだ。
僕だったらそんなことはしない。
僕だったら、自分が好きでもないものや、詳しくないことを題材にはしないし
プロとして、もし仕事を受けるなら、その対象に詳しい人と一緒に脚本を書くか
或いは、ブレーンとしてチームに入ってもらう。
そうしないと、題材をうまく活かせないどころか
ファンに対して失礼にあたるだろう、と感じてしまうからだ。


結論を言えば、Twitterは「ただ流行っているから」という要素の1つでしかなかった。

脚本家やプロデューサーは「Twitterユーザーを喜ばせて味方に付けたところで
視聴率に響くわけじゃない」と言うかもしれない。
もしそうなら、そんな失礼なことないんじゃないかなあとも思う。

わざわざ「話題の1要素」として借りてくるんだから
しっかりリスペクトして、味方に付けちゃえばよいのにね、もったいない。
人口はまだまだ少ないと思うけど、話題を爆発させる力は持っているのだから。


『素直になれなくて』は、Twitterも含め「話題の1要素」が詰め込まれたドラマだった。

それはいい。
しかし、その多くが、僕にとってはかなり嫌悪感を抱くものだった。
思い出すだけでもいっぱいある。
セクハラ、パワハラ、リストカット、クスリ、学生の万引き......。

社会的に、弱い立場、状況に置かれている者たちを描いて
それが、Twitterという繋がりによって、互いを励まし合い、個性を認め合い
......みたいなものを描こうとしているのだと思うし
さらには、そうやって繋がったように見えた相手であっても
深く付き合えば、理解が難しい闇みたいなものを、それぞれが持っている
というような深みの付け方をしていくのだと思うが
それにしても、なんだか息苦しかった。

もちろん、社会を描くという上で、そういう面を描くことは悪くないと思う。
ただ、あまににも乱暴なのだ。あまりにも土足なのだ。
実際に同じような立場に置かれている人は、共感できるのであろうか。


スパイスとして「話題の1要素」を入れまくるのはいい。
ただ、それらを混ぜ合わせるだけで、料理にするのではなく
それぞれの素材を、丁寧に慎重に扱ってほしいと思う。

そして、プロなら、上手に調理してほしいと思うのだ。


その昔、ナタデココがブームになったとき
「ナタデココが入ったカレー」というのを食べたことがある。

それは......ただの、ナタデココが入ったカレーだった。

今回のドラマ『素直になれなくて』は、それと似たような味がした。


1つよかったのは、僕はほとんど知らない人ばかりだったのだが(失礼)
出ていた俳優さんたちは、演技が上手なように思えた。
男性も女性も、上手だなあと思うシーンがいくつもあった。

なにより、上野樹里さんという人の、ドラマ後半の表情だけで演技するシーン。
それが見れただけで、まあよかったかもなあとは思う。

その数秒のシーンは、タイトル『素直になれなくて』をほんとうに上手に表現していた。

Posted by eno at 10:37 AM
April 01, 2010
APRIL FOOL'S DAY

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Posted by eno at 07:28 PM