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November 22, 2007


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そろそろゲームのことを語ろうか。第1回『エネミー・ゼロ』

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さて、ゲームのことを語ろうかと思います。

今回を初回として、何回か続けていこうと思っています。

前回の予告でも書いたけど
ゲームの紹介をしたいわけではないから、内容については語らず。
開発の話も、「つらかった」とか、そんな話ばかりになるから、語らず。


ゲームを離れて、そろそろ8年。
過去のゲームのことは、語ることはなかったんだけど
そろそろ語ろうかなあと、ふと思ったので、いい機会だと思いました。

語ったからといって、なにがどうというわけではないし
昔話をするのは、いつもなら、格好が悪いことと思うんだけど
「語ろうかなあ」と思った気持ちに、正直に、従ってみようと思った。

語ったからどう、というのは、語ってみたらわかることかもしれないし。

……これ、もしかして、自分に向けて、語っているのかなあ。


最初にお断りしておきたいのは、重要なことを語る、というわけではなく
いま、思い出すことを、ただ語ります、ということ。
どの作品についても、ずっと語っていたら、ずっと語っていられる。

いま、語ることに意味があるんじゃないかと思って。
きっと、3年前とか、5年後に語ったら、違うものを挙げるかもしれない。


という初回は、『エネミー・ゼロ』のこと。
重いなあ。
やっぱり、『ショートワープ』からにすればよかった。


さて……。
『エネミー・ゼロ』について。

最初に、思い出すのは、ロゴを作ったとき。
『エネミー・ゼロ』が、ある意味、始まった瞬間。
突然、あの形のイメージが沸いてきて
丸2日、ほぼ机の上から離れずに、集中して作った。
ふって沸いたものを、実際のイメージに落とす。
音楽とか企画では起こることだけど、デザインでそんなことが起こるというのは
初めての体験だったこともあって、自分でもびっくりした。


次に。
最も語るべきなのは、プラットフォームを変えたことだろうか。
ものすごく悩んだんだよね。
その理由に関しては、過去に何度も語ったし
なんだか「気持ちをわかってくれ」みたいな感じがするから
語りすぎないようにしますが、最大の理由だけ。

それは、前作『Dの食卓』のプレイステーション版のこと。
たまに、SCEがちゃんと販売しなかったことが、その理由だと勘違いされているけど
そうではなくて、オーダーした数を生産してくれなかったんだ。

いまじゃ考えられないけど
当時は、プラットフォーマーが、初回本数を決めていた。
こちら側のリスクで、こちらのお金で、こちらが受注取ってきているのに。
10万枚、せめて8万枚といくらお願いしても、4万枚しか作ってくれなかった。
思い切り、ビジネスロス。
しかも、あまりにも少ないと感じて、調べたところ
2万8千枚しか出荷していなかった。
それはないよね。

そんなことが、ほかにもいっぱいあって。
めちゃめちゃなことが、たくさんあったんだよ。
いまじゃ、いくらなんでも、ありえないことだと思うけど。
そういうことが、いっぱい積もって積もって
残念ながら、相手として、信じられなくなってしまったんだ。

自腹切って開発しているから、うまくいかなかったら潰れる状況で。
『Dの食卓』で上がった利益を、ほぼ投入したから。
開発している仲間のこともあって。
みんなかなり無理して、一生懸命作っていたんでね。

リーダーとして経営者として
大切なソフトウェアを、信頼ができない相手に、預けることはできなかった。

ひとつ言えるのは、いま同じ状況だとしても、同じ選択をするということ。
あたり前のことだけど。


思い出すのは、最初にSEGAと話し合いをもったときのこと。
先方は副社長から並んだ場だったんだけど、前日に高熱が出たんだよね。
びっくりするくらいの突然の高熱。
そして、二度目のミーティングのときに……、また、前日に高熱。
もう、これはなんだろうと思った。
決断ができていなくて、交渉を先延ばしに……とか、思われたらいやで
体温計を持っていって、その場で計って見せた。馬鹿みたいだけど。

あれは、なんだったんだろう、といまでも思う。

あと、最初にお会いしたとき、当時副社長の入交さんが
まったくゲームの内容には触れず、こっちの人物のことだけを訊いてきたこと。
これは驚いた。内容の話の前に、こちらの人間を見ます、ということだからね。
面白い人がいるなあと思った。


マイケル・ナイマンとのことも思い出深い。
ホテルで6時間説得して、無理矢理、口説いたようなもんだ。

アビーロードで録音したなあ。
最初のアビーロードでのスケッチのとき、収録までしたんだけど
マイケル・ナイマンの良さが出ていないのと、求めていたイメージと違ったので
めちゃめちゃ悩んで、ダメ出しをしたことも思い出深い。
マイケル・ナイマンにボツと言ってよいものかと。
結局、やりなおしをしてもらった。
受け入れてくれて、いまも感謝しているんだ。

先日、LIVE EARTHの京都の会場で、久しぶりに再開して抱き合った。


どうでもいいことでは
3DCGゲーム初……だと思うんだけど
オールヌード、キスシーン、シャワーシーン。
最後になって「もう1つ」ってシャワーシーン入れたなあ。
懐かしい。
そういう、どうでもいい元気さが、なくなってしまったなあ。


さて、プレイステーションエキスポ。
プレイステーションエキスポ、という場で
プラットフォームを変更することを発表した。
プレイステーションのロゴを、サターンのロゴにモーフィングさせた。
もう、それは「やるならやったれ」という悪ノリだけど。
文字通り「やるならやったれ」だった。

プレイステーションエキスポで、移籍発表というのは
やりすぎかなあと、思われるかもしれないけど
いまさらキャンセルがきかないタイミングだったのと
正直、「やってやれ」という気持ちが強かった。

ゲームメーカーとしての声を、本気の叫びを
プラットフォーマーに届けたかったんだ。

それが、直接かどうかはわからないけど
その後、初回本数はパブリッシャーが決める、というルールに変わった。
それは、いまも続いていることだ。

あの場で発表するかどうかは、最後まで……それこそ
その発表会のその時間まで、自分に選択権があった。
1秒前まで、やめる、という判断ができるようにしていたのが
いま思うと、ちょっと覚悟が弱いというか、情けないね。


そのエキスポの後、SEGAでも移籍会見みたいな発表会をやったんだけど
当時、副社長だった入交さんと、舞台で握手するシーンがあって
だけど、そこで流れていたのは、華々しい音楽ではなかった。
そういうシーンには合わない、寂しい曲が流れていた。

僕が、CDを持っていって、舞台の演出をやっている人に頼んだんだ。
この音楽をかけてくれって。

その楽曲は、マイケルナイマンの『数に溺れて』。

そのタイトルに、すべてが現れている。
嬉しかったのは、その会場にいた記者で、1人だけ、気付いてくれたんだ。


いまでも申し訳ないというか、悪いことしたなあと思うのは
SCEの担当だった松本さんと、マーケティングの佐伯さん。
ごめんなさい、としか言いようがない。
佐伯さんと、その翌日、お会いしたとき……辛かったというか
なんというか、複雑だった。


坂本祐二と仕事をしたのも、このソフトが最初。
台詞をリライトしていただいた。
以前に、雑誌で対談を申し込まれたのが、出会いだった。

会って、いろいろとお話をしてみて
すごくいい人だったので、彼と仕事がしたいと思って、連絡を取ったら
ドラマの脚本を書いていて、ホテルに缶詰になっていた。

ホテルにずっと1人じゃ寂しいだろうと思って
お風呂で遊ぶおもちゃを、いっぱい持っていったんだよね。
ポンプ式でぴょんぴょん跳ねるカエルとか。
黄色いアヒルのおもちゃとか。
山ほど。
それがきっかけで、すごく仲良くなった。


話が散漫だけど、広告のアートワークも思い出深い。
『Dの食卓』のときは、アートディレクションをしていたけど
『エネミー・ゼロ』からは、自分で直接、デザインをするようになった。

カヒミ・カリィに頼んで、広告に出演してもらった。
彼女の持つイメージが、作品という意味ではなく、作品の広告として
ぴったりだったんだよね。


『エネミー・ゼロ』からは、メンバーもずいぶん増えた。
引っ越したりして、会社の規模が大きくなっていくことに対して
すごく違和感あったなあ。

『エネミー・ゼロ』から参加した
「ICO」や「ワンダと巨像」の上田文人くんのことを、よく訊かれるんだけど
入社の審査ビデオの内容をいまでも覚えている。雰囲気がすごかった。技術ではなく。
実は、社内審査的にはうまくなかったんだけど、無理矢理頼んで採用したんだよね。
即戦力とかいうことじゃなくて、持っている才能が凄かったから。
技術以外で、ワープで学んだことなんて、なにもないんじゃないかと思うくらい
最初から、ずっと才能があった。世界を創る才能の持ち主だ。


長くなってしまったから、このへんで。

『エネミー・ゼロ』という作品は、すごく複雑な思い出だ。

ゲームの内容や、開発のことを書かずに
当時を思い出して、周辺のことを書いているから、そうなのかもしれないけれど。


もう10年以上も前のことなんだよね。


Posted by eno at November 22, 2007 04:10 AM


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